人物総覧 し  庄内藩 儒学者

名前 白井矢太夫
よみ しらいやたゆう
生年 宝暦三年(一七五三)
没年 文化九年六月二十四日(一八一二)
場所 山形県鶴岡市
分類 庄内藩中老・儒学者
略歴

 庄内藩士白井久右衛門(茂貞)の長子として生まれ、天明四年家督を継いだ。諱は重行、字は子徳、通称は矢太夫、中老になってから弥太由、東月は号である。祖父白井久兵衛(茂種)は荻生徂徠の門人であった。矢太夫は初め、加賀山寛猛に学んだが、安永九年、二十八歳の時、江戸に出て太宰春台、松崎観海に師事し、天明二年帰国して物頭から大目付に進んだ。この頃、藩財政は窮乏し、農村は荒廃していた。七代藩主忠徳は寛政四年農民を救済する方法があったら申し出よと命じた。矢太夫は、この諮問に応えて同五年一月「上書」を提出し、忠徳の信任を得、同年五月郡代に抜擢された。寛政七年春山浜通代官が温海組の拝借米金を郡代の許可なしに切り捨て、それが狩川通にも及ぶや忠徳の断が下され、家老水野重孝らを退け、亀ヶ崎城代竹内八郎右衛門を中老に復帰させ、郷村改革掛に任命し、竹内八郎右衛門と白井矢太夫を軸とする農政改革に道を開いた。寛政七年六月郷方懸物の減少を命じ、十月には莫大な貸付米金の切り捨てを命じた。また、同八年四月矢太夫は「郷方趣法存念書」を提出して改革の方針を明らかにした。その中で最も重要な政策は、入作田畑の作徳に一割の困窮与内米を課し、その資金を利用し村上げ地の主付を行うことであった。そのほか菜種粕の沖出しを禁止し肥料の確保に努力し、漆木の植え付けを奨励するなど殖産興業に努めた。その結果、藩財政は富裕となり、庄内藩は神田大黒の異名で呼ばれるようになったという。矢太夫は早くから藩主忠徳に学校の建設を進言していたが、寛政十二年鳥海山麓を視察した折、将来、学校資金に供するため白井新田の開拓を計画しており、文化二年鶴岡の北郊大宝寺に藩校致道館を創立、自ら祭酒兼司業となった。致道館の学風は徂徠学であった。藩主の信任はますます厚く、矢太夫は文化三年小姓頭、文化五年中老に昇進し、同七年八百石となった。家老水野元朗の女を妻とし、家老竹内八郎右衛門と手を結び権勢を振るったが、文化六年、江戸詰め元締役坂尾儀太夫が仙台領関駅で宿屋主人を無礼討ちした事件が起こり、それが元になり文化八年参勤道路を幕府の許可なしに変更したため幕府の不興を買い、竹内八郎右衛門と白井弥太由は御役御免となった。弥太由は文化七年冬、病に倒れ、療養中であったが、同八年正月中風のため半身不随となった。同年退役とともに隠居し、嫡子重明が四百石を相続。文化九年六月二十四日没す。享年六十歳。大正十三年正五位を追贈された。白井新田村では、開田直後、矢太夫を生祠(白井大明神)に祭り、現在の白山神社の元となった。『周易解』十二巻(文化四年致道館刊行)、『周易断叢』一巻、『尚書国字解』(文化三年の火災で焼失)、『東月遺稿』一巻などの著書がある。(三百藩家臣人名事典)
 墓碑銘は「故太夫東月白井君墓」

白井矢太夫墓所

白井矢太夫の墓


白井矢太夫の墓接近
  
ゆかりの人物リンク
名前 関係 補足 墓所 写真
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ゆかりの地リンク
場所 住所 説明 写真
致道館跡
(聖廟舊跡碑)
山形県鶴岡市
 日吉町11-33
白井矢太夫の進言によって文化2年(1805)庄内藩酒井家9代藩主酒井忠徳の代の時創設。白井矢太夫は初代祭酒となる。

文化十三年馬場町に移転。その際この碑が建てられたといわれる。