名前 |
加賀山寛猛 |
よみ |
かがやまかんもう |
生年 |
享保七年(一七二二) |
没年 |
天明七年七月二十九日(一七八七) |
場所 |
山形県鶴岡市 |
分類 |
庄内藩士・儒学者 |
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略歴 |
庄内藩の町奉行加賀山平助安縄の四男として酒田で生まれる。通称を衛士、字を季和と称し、東里・桃李と号した。若い頃、母の実家を継いだ犬塚男右衛門盛傅とともに、水野元朗に入門して儒学を学び、頭角を現して庄内藩の双璧と称された。元文元年、加賀山入大夫の嫡子伊織の後見養子となり、高三百石の家督を継ぐ。寛保二年御使番となって江戸に上り、太宰春台に師事、また松崎観海と交わって研鑽を重ねた。宝暦三年支藩松山藩の世子忠起の守役となったが、翌年御家騒動にからんで藩主忠休から辞職を命ぜられ、江戸で勉学に恵念。同七年側用人となり、五代藩主忠寄の老中在任中はその公用人を勤めた。明和五年伊織に家督を譲って別家となり、特命により三十人扶持を給され、寺社奉行を兼ねる。安永二年奥頭役に転じ、新知二百石を給される。同五年、酒井氏が江戸城大手門の警衛を命ぜられた時、その番頭を勤め、たびたびの加増によって三百五十石となる。寛猛は謹直・節倹で、行いも正しく、人々から君子人と敬われていた。大手番頭を勤めていた頃、幕臣たちは押し借りなどの貪欲な振る舞いが多く、嫌われていたが、寛猛だけは常に公正な態度で接したので、幕臣もあえて不正行為を慎んだという。また髪の元結も藁を用いていたという。庄内藩で徂徠学を異端視していた人々も、寛猛の言行一致の態度に心服し、次第にこれを信ずるようになったという。その後、徂徠学は門人の白井矢太夫によって受け継がれ、藩校致道館の創設に至って藩学として定着。老後は茶を点じ、謡や舞いを学んで余生を送った。天明七年七月二十九日に六十六歳で没した。伊織の後見という立場から生涯妻帯せず、甥の深蔵を養子とした。著書として漢詩集『餐霞楼集』を始め、『江泉記聞』『可順記聞』『祭祀家礼』などがある。(庄内人名事典)
墓碑銘は「桃李加賀山君墓」
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加賀山家墓所 |

加賀山寛猛の墓 |
ゆかりの人物リンク |
名前 |
関係 |
補足 |
墓所 |
写真 |
犬塚男内 |
弟子 |
江戸時代中期〜後期の庄内藩士、儒学者 |
山形県鶴岡市 |
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加賀山雄蔵 |
玄孫 |
江戸時代後期の庄内藩士、事故死 |
山形県鶴岡市 |
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酒井忠起 |
守 |
江戸時代中期の庄内松山藩主酒井家世子。 |
東京都新宿区 |
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酒井忠休 |
主君 |
江戸時代中期の大名、出羽松山藩(松嶺藩)二万五千石酒井家3代 |
山形県飽海郡松山町 東京都新宿区 |
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酒井忠寄 |
主君 |
江戸時代中期の大名、出羽庄内藩十四万石酒井家5代、幕府老中 |
山形県鶴岡市 |
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白井矢太夫 |
弟子 |
江戸時代中期〜後期の庄内藩士、藩校致道館の創設 |
山形県鶴岡市 |
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竹内八郎右衛門 |
交友 |
江戸時代中期〜後期の庄内藩家老、茂昆。寛政改革を断行 |
山形県鶴岡市 |
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太宰春台 |
師 |
江戸時代前期〜中期の儒者、一時岩槻藩士、経世論の春台 |
東京都台東区 |
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疋田進修 |
師 |
江戸時代中期の庄内藩家老、儒学者 |
山形県鶴岡市 |
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松崎観海 |
交友 |
江戸時代中期の丹波亀山藩、丹波篠山家老、儒者 |
東京都港区 |
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水野元朗 |
師 |
江戸時代中期の庄内藩家老、藩政に尽くした名家老 |
山形県鶴岡市 |
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三矢伊兵衛 |
弟子 |
江戸時代中期〜後期の庄内藩儒 |
山形県鶴岡市 |
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ゆかりの地リンク
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