名前 |
重田道樹 |
よみ |
しげたどうじゅ |
生年 |
宝暦二年(一七五二) |
没年 |
文化八年一月七日(一八一一) |
場所 |
山形県鶴岡市 |
分類 |
庄内藩医 |
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略歴 |
代々藩医を世襲する重田家に生まれる。父の道達は名医として名高く、五十石から二百石に加増されている。母は随(小林氏)。実名を範茂、字を子績と称し、鳥岳・喬園・明月楼と号した。安永六年表医師となって藩士の治療や同僚子弟の育成に尽力、翌七年その功により五人扶持を給され、寛政元年には奥医師に転じた。同三年百七十石の家督を継ぎ、同十一年御匙に昇進した。書家としても著名で、「庄内古今書家競」では、西(漢様)の最高位を占めている。初めは悪筆であったが、唐様書風の祖といわれる田中蘭斎に師事して頭角を顕わし、豪壮な書風を身につけた。享和二年新装成った藩校致道館の額を書いている。文化二年開校に伴い、助教兼司業に任ぜられ、医業のかたわら御家中子弟の教育に当たる。儒者白井矢太夫、渡部種徳とは無二の親友で、ある時、各々分担して詩経・書経・岡易の解釈書を著す約束をしたが、矢太夫の『周易解』以外は完結をみなかったという。また、藩の首脳部とも対等に論じ合い、彼らの施策に過失がないように助言を与えていた。著書として古代中国の医学書『傷寒論』の解釈書がある。文化八年一月七日、在職中に死去、享年六十歳。妻りつ(山村氏)は大力で知られ、重田家に押し入った三人の盗賊を斬り殺したという逸話がある。二男六女あり、長男の道遠が家を継いだ。長坂氏に嫁した三女順の娘義は才色兼備で、和歌・弾琴・挿花・茶の湯をよくした。(三百藩家臣人名事典)
墓碑銘は「鳥嶽重田君之墓」
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重田家墓所(すばらし〜) |
重田道樹の墓 |
重田道樹墓碑側面 |
ゆかりの人物リンク |
名前 |
関係 |
補足 |
墓所 |
写真 |
石井子龍 |
弟子 |
江戸時代後期の庄内藩弓術家、画家 |
山形県鶴岡市(2カ所) |
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石川朝陽 |
交友 |
江戸時代中期後期の庄内藩士、儒学者 |
山形県鶴岡市 |
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相良助右衛門 |
弟子 |
江戸時代中期〜後期の庄内藩士 |
山形県鶴岡市 |
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重田道達 |
父 |
江戸時代中期の庄内藩医 |
山形県鶴岡市 |
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白井矢太夫 |
親友 |
江戸時代中期〜後期の庄内藩士、藩校致道館の創設 |
山形県鶴岡市 |
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田中蘭斎 |
師事 |
江戸時代中期の庄内藩士、書家 |
山形県鶴岡市 |
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渡部種徳 |
親友 |
江戸時代中期の庄内藩士、武芸家 |
山形県鶴岡市 |
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