人物総覧 い
 庄内藩 儒学者

名前 石川朝陽
よみ いしかわちょうよう
生年 宝暦十二年 (一七六二)
没年 天保六年七月十七日(一八三五)
場所 山形県鶴岡市
分類 庄内藩士・儒学者
略歴

 庄内藩士石川光元(彦明)の子として生まれた。幼名は甚八郎、諱は庸行、字は子謹、通称を百右衛門、主膳といい、朝陽は号である。祖父小作(定寧)は石川猪太夫(長宜)の次男で、百石を与えられ一家を成した。朝陽は幼時から俊秀の誉れ高く、武術に長じ、天明五年二十四歳の時、中台曾太夫から居合の免許を受け、同八年二十七歳の時、相良十太夫から槍術の免許を受けた。また白井矢太夫、渡部種徳、重田道樹らと親交を結び、徂徠学を学んだ。しかし、寛政九年以後たびたび江戸に上り、江戸在勤中、尾張藩の碩学冢田大峯に栄子学を学び、折衷学に傾いた。寛政十年、父の隠居により家督を継ぎ、藩士に儒学を講じ、同十二年藩主の待講となり、同年御抱守となった。文化二年四十三歳の時、近習頭取、同四年側用人となり、学校入費取締役を兼務した。文化八年の政権交代で白井矢太夫は中老と致道館の祭酒を免ぜられた。新たに政権を担当した水野重栄は、致道館助教犬塚男内の意見を採用し、文化十三年大宝寺にあった致道館を三の丸の内馬場町十日町口に移転した。朝陽は翌十四年一月小姓頭に任ぜられ、同年五月致道館祭酒の兼務を命ぜられた。致道館は移築とともに句読所、外舎、本舎などの校舎が増築され、教育課程も整備された。句読所、終日語、外舎、試舎生、舎生らの教育制度ができたのは移転後であり、外舎以上は少数の英才教育であった。以上のような教育改革の実施に当たり、朝陽を助けたのが犬塚男内であった。男内は文政元年司業典学助教となり、致道館の運営をリードした。この頃が恭敬派の最盛期で、朝陽の弟子多田宏廬が米沢藩の興譲館に遊学した。朝陽は文政弱年病のため祭酒を辞し、同十二年隠居した。知行は加増が重なり四百石になっていた。天保六年七月十七日に没した。享年七十四歳。著書に『朝陽先生遺集』四巻がある。(三百藩家臣人名事典)
 墓碑銘は「朝陽石川先生墓」。

石川朝陽墓所

石川朝陽の墓
  
ゆかりの人物リンク
名前 関係 補足 墓所 写真
石川輝璋 後裔 明治〜大正時代の茶人 山形県鶴岡市
石川光元 江戸時代中期の庄内藩士 山形県鶴岡市
犬塚男内 同志 江戸時代中期〜後期の庄内藩士、儒学者 山形県鶴岡市
相良十太夫 江戸時代中期の庄内藩士、鎗術家、庄内の三名物 山形県鶴岡市
相良助右衛門 交友 江戸時代中期〜後期の庄内藩士 山形県鶴岡市
重田道樹 交友 江戸時代中期の庄内藩医 山形県鶴岡市
白井矢太夫 交友 江戸時代中期〜後期の庄内藩士、藩校致道館の創設 山形県鶴岡市
高橋才輔 弟子 江戸時代後期の庄内藩士、儒家 山形県鶴岡市
多田良助 弟子 江戸時代後期の庄内藩儒、致道館助教、荘内三大家の一人 山形県鶴岡市
冢田大峯 江戸時代中期〜後期の漢学者、寛政の五鬼 名古屋市千種区
都筑十蔵 弟子 江戸時代後期の庄内藩士 山形県鶴岡市
中台惇 弟子 江戸時代中期〜後期の庄内藩士、篤学者 山形県鶴岡市
和田東蔵 弟子 江戸時代中期〜後期の庄内藩士、儒学者 山形県鶴岡市
渡部種徳 交友 江戸時代中期の庄内藩士、武芸家 山形県鶴岡市


ゆかりの地リンク
場所 住所 説明 写真
致道館 山形県鶴岡市
 馬場町11-45
文化2年(1805)庄内藩酒井家9代藩主酒井忠徳が創設。
東北で現存する唯一の藩校で国指定史跡。学問資料などが多く展示されている。

文化14年5月致道館祭酒となる。