名前 |
多田良助 |
よみ |
ただりょうすけ |
生年 |
安永六年 (一七七七) |
没年 |
天保十五年八月二十四日(一八四四) |
場所 |
山形県鶴岡市 |
分類 |
庄内藩士・儒学者 |
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略歴 |
藩士多田翁右衛門高得の長男として生まれる。多田家の先祖は山城国の出身で、元禄二年江戸で召し抱えられ、二代続けて留守居を勤め、父の代に鶴岡在勤となった。良助は実名を誠明、字を叔靖といい、宏廬・南風館と号した。幼い頃から学問を好み、とりわけ詩作が得意であった。長じて石川朝陽に師事してその才能を認められ、江戸遊学を勧められたが実現しなかった。文化三年近江国で没した叔父多田翁助(酒井家から膳所藩主本多家へ養子となった康伴の付人)の墓参のため、詩を賦しながら諸国を歴遊し、見聞を広めた。文化十三年四十歳で致道館の助教となり、学問に精勤、文政元年に三人扶持で召し出された。同じ年、米沢藩校興譲館の学制の長所を学び取るため米沢に派遣され、督学神保蘭室の指導のもと、六ヵ月にわたって俊才たちと切磋琢磨し、そのかたわら藩政や民情を視察した。境目番所の入判の制度は、その報告により米沢藩を模して創始されたものである。後に江戸へ上って幕府の儒官佐藤一斎からも学んだ。同六年に支藩松山藩の幼主酒井忠方付きとなり、勉学の相手を勤めるとともに、その初入部に当たり藩主の心構えについて上書している。天保元年助教兼司業に復帰し、学校係となる。翌年、国許の藩主子弟の教導の任を兼ねる。天保十五年八月二十四日在職中に没する。享年六十八歳。おおざっぱな性格で、一字一句の解釈よりも学問の本質をつかむことに重点を置いた。何か変事があったり喜怒哀楽の情が生じたりすると、すぐにそれを詩によって表現した。死の床にあっても詩作をやめなかったという。二百編に上る詩稿は遺命によって焼き捨てられ、わずかに残ったものが明治十年嗣子誠成の手で『宏廬詩集』として刊行された。妻千賀との間に生まれた誠成は、後に初代県会議長や山形県監獄所長を勤めた。(三百藩家臣人名事典)
墓碑銘は「宏廬多田先生之墓」
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多田良助墓所(洪水の中を突撃) |
多田良助の墓 |
ゆかりの人物リンク |
名前 |
関係 |
補足 |
墓所 |
写真 |
石川朝陽 |
師 |
江戸時代中期後期の庄内藩士、儒学者 |
山形県鶴岡市 |
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酒井忠方 |
主君 |
江戸時代後期の大名、出羽松山藩(松嶺藩)二万五千石酒井家6代 |
東京都新宿区 |
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坂尾清風 |
庄内三大家 |
江戸時代後期の儒学者、庄内三大家の一人 |
山形県鶴岡市 |
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佐藤一斎 |
師 |
江戸時代後期の儒学者、昌平黌教授 |
東京都港区 東京都台東区 |
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神保蘭室 |
師 |
江戸時代中期〜後期の米沢藩儒 |
山形県米沢市 |
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菅基 |
庄内三大家 |
江戸時代後期の儒学者、庄内三大家の一人 |
山形県鶴岡市 |
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多田誠成 |
長男 |
明治時代の判事、政治家 |
山形県東田川郡三川町 |
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中台惇 |
親交 |
江戸時代中期〜後期の庄内藩士、篤学者 |
山形県鶴岡市 |
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