名前 |
犬塚男内 |
よみ |
いぬづかだんない |
生年 |
明和八年 (一七七一) |
没年 |
文政五年五月二十四日(一八二二) |
場所 |
山形県鶴岡市 |
分類 |
庄内藩士・儒学者 |
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略歴 |
庄内藩士犬塚男右衛門盛伝の二男として生まれた。郡代兼致道館司業大塚祐吉の弟で、諱は秀実、字は武仲、通称を男内、号を東海と称した。加賀山寛猛の弟子で、学識があり、享和元年召し出されて五人扶持を与えられ、文化二年、藩校致道館の設立とともに典学兼助教を命ぜられた。文化四年、庄内藩が幕命により蝦夷地警備のため出兵した時、大筒方並びに松前隠密役として渡島。文化六年松山藩の荻野流砲術師範山本丈右衛門を招き、浜中で各種火砲を試射した時庄内藩から犬塚男内ら数名の藩士が入門し、男内は文化十一年免許皆伝を受け、庄内藩荻野流の師範となった。彼は万年橋の自宅の隣地に矢場を作り、砲術稽古に努め、多くの門弟を養成。男内の死後、荻野流の師範は石原末吉が受け継いだ。致道館の教師の中には白井矢太夫を中心とする放逸派と犬塚男内を中心とする恭敬派の対立があった。放逸派は徂徠の学風や言行を信奉し、瑣事に拘泥せず日常生活が放逸であったのに対して、恭敬派は太宰春台の学風と性格を強く受け、謹厳な生活態度を重んじたので、かく称された。文化八年の政権交代で白井矢太夫や白井重固が辞任した後、犬塚男内が家老水野重栄と結び致道館運営の実権を握り、文化十三年男内の首唱で致道館を三の丸の内馬場町十日町口に移した。校舎を増集し、祭酒石川朝陽に協力し句読所から舎生に至る五段階の教育課程を整備した。文政元年致道館の司業を兼ね、同四年新知百石を給された。放逸・恭敬両派の党争は激しく、詩文で藩内第一と称された放逸派の助教菅基(伊織)は男内のため江戸定府に移されたと伝えられ、また男内の死後、その高弟で助教と舎長を兼ねていた大瀬準次郎(正班)は、天保十一年放逸派の組頭服部行蔵の糾弾を受け親族に預けられたが、その糾弾は無実の罪であったとも伝えられる。また、大瀬の高弟服部毅之助は丁卯の大獄の時、捕らえられ、迫害を受けている。男内は文政五年五月二十四日没した。享年五十二歳。(三百藩家臣人名事典)
墓碑銘は「東海犬冢先生墓」
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犬塚男内墓所 |
犬塚男内の墓 |
ゆかりの人物リンク |
名前 |
関係 |
補足 |
墓所 |
写真 |
石川朝陽 |
同志 |
江戸時代中期後期の庄内藩士、儒学者 |
山形県鶴岡市 |
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石原末吉 |
弟子 |
情報求む |
情報求む |
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犬塚祐吉 |
兄 |
江戸時代中期〜後期の庄内藩士、致道館学監 |
山形県鶴岡市 |
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大瀬準次郎 |
弟子 |
江戸時代中期の庄内藩儒 |
山形県鶴岡市 寺の場所不明 |
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加賀山寛猛 |
師 |
江戸時代中期の庄内藩儒 |
山形県鶴岡市 |
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白井重固 |
対立 |
江戸時代中期〜後期の庄内藩士、致道館司業 |
山形県鶴岡市 |
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白井矢太夫 |
対立 |
江戸時代中期〜後期の庄内藩士、藩校致道館の創設 |
山形県鶴岡市 |
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菅基 |
交友 |
江戸時代後期の儒学者、庄内三大家の一人 |
山形県鶴岡市 |
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水野重栄 |
上司 |
江戸時代中期〜後期の庄内藩家老、藩政刷新に尽力 |
山形県鶴岡市 |
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山本丈右衛門 |
招聘 |
江戸時代中期〜後期の庄内藩砲術家 |
山形県飽海郡松山町 |
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ゆかりの地リンク |
場所 |
住所 |
説明 |
写真 |
致道館跡
(聖廟舊跡碑) |
山形県鶴岡市
日吉町11-33 |
白井矢太夫の進言によって文化2年(1805)庄内藩酒井家9代藩主酒井忠徳の代の時創設。
文化十三年馬場町に移転。その際この碑が建てられたといわれる。 |
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致道館 |
山形県鶴岡市
馬場町11-45 |
文化2年(1805)庄内藩酒井家9代藩主酒井忠徳が創設。
東北で現存する唯一の藩校で国指定史跡。学問資料などが多く展示されている。
致道館は犬塚男内の提言で馬場町に移転。 |
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