名前 |
水野重栄 |
よみ |
みずのしげよし |
生年 |
安永六年(一七七七) |
没年 |
天保八年七月三日(一八三七) |
場所 |
山形県鶴岡市 |
分類 |
庄内藩家老 |
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略歴 |
家老水野重幸の長子として生まれ、通称を東十郎、内蔵丞、右近、字を子懐、号を東園、桃園と称した。寛政八年一千四百石の家督を継ぐ。文化五年組頭、同七年亀ヶ崎定番を命ぜられた。同八年参勤道路を無断変更した責任を問われて家老竹内八郎右衛門、中老白井矢太夫が失脚した後、中老に任ぜられ政権を握り、同十年家老に昇進。文化十二年本間光道(光丘の長男)に随時郡代役所出仕を命じ本間家との関係を復活し、また致道館助教犬塚男内の意見を用い、政教一致のため文化十三年大宝寺の藩校致道館を三の丸の十日町口に移し、校舎の一部を藩の重役会議である会所の会場に使用することとした。学校の移築工事ははとんど本間光道の奉仕で行われた。また教室、宿舎を増築し、教育課程を句読所から舎生に至る五段階に整備した。また学校の東隣に郡代役所を置き行政事務の能率化を図った。文政元年五人組の再編を命じ、人別改帳を整備した。とくに他国に出稼ぎ中の職人、商人、他所奉公人の還住を勧め、御家中軍役の高割人数の確保に配慮した。在職中藩政刷新に尽力した功により文化十三年一千六百石に加増された。天保六年隠居し、隠居料三十人扶持を与えられ、家禄は嫡子重明(猪之三)が継いだ。天保八年七月三日没した。享年六十一歳。(三百藩家臣人名事典)
墓碑銘は「荘内故太夫正受水野君墓」
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水野重栄墓所 |
水野重栄の墓 |
水野重栄の墓(接近) |
ゆかりの人物リンク |
名前 |
関係 |
補足 |
墓所 |
写真 |
犬塚男内 |
同志 |
江戸時代中期〜後期の庄内藩士、儒学者 |
山形県鶴岡市 |
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酒井忠器 |
主君 |
出羽庄内藩十四万石酒井家第8代 |
山形県鶴岡市 |
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白井矢太夫 |
対立 |
江戸時代中期〜後期の庄内藩士、藩校致道館の創設 |
山形県鶴岡市 |
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竹内八郎右衛門 |
対立 |
江戸時代中期〜後期の庄内藩家老、茂昆。寛政改革を断行 |
山形県鶴岡市 |
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竹内八郎右衛門 |
対立 |
江戸時代後期の庄内藩中老、茂林。土屋両義士の仇討に立ち会う |
山形県鶴岡市 |
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本間光道 |
致道館 |
江戸時代中期〜後期の豪商本間家4代、庄内藩士、鳥海山噴火の罹災民を救済 |
山形県酒田市 |
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水野重明 |
長男 |
江戸時代後期の庄内藩家老、亀ヶ崎城番 |
山形県鶴岡市 |
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水野重幸 |
父 |
江戸時代中期〜後期の庄内藩家老、放逸派により隠居 |
山形県鶴岡市 |
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水野丹解 |
弟 |
江戸時代中期から後期の庄内藩軍学者 |
東京都小金井市 |
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