名前 |
冢田大峯 |
よみ |
つかだたいほう |
生年 |
延享二年三月三十日(一七四七) |
没年 |
天保三年三月二十一日(一八三二) |
場所 |
愛知県名古屋市千種区 |
分類 |
尾張藩儒学者 |
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略歴 |
名は虎、号は叔貔、号は大峰・雄鳳館、通称は多門。江戸中期後期の漢学者。信濃国水内郡長野村の人。父は冢田旭嶺。早くから父に学び、江戸に出て僧となり、増上寺に一時いたが還俗し、儒たらんと志し、劾苦辛酸学成って、私塾を開いて教えた。学は貧なるため定師がなく、初め朱子学であったが、三十歳頃からそれを斥け、古学を奉じ、自ら一家の学を打ち立てた。終始苦しい中での独学で、安永三年ごろ、赤坂より青山まで油を借りに行って、その油で夜勉強したこともあったという。天明五年麹町具坂に新たに家塾を開いて雄風館と称し、多くの門弟を集めた。寄宿の生徒は常時五、六十人を下らなかった。幕府は寛政二年所謂異学の禁の通達を出した。それに対して異学の徒は盛んに抗論した。その中でも山本北山・亀田鵬斎・冢田大峰・豊島豊洲・市川鶴鳴の五人は、その魁として五鬼と呼ばれた。就中大峰は、前後三回にわたってその不可を論じた。その言葉もまた激烈なものがあった。これより先大峰は、細井平洲の仲介で、江戸名古屋藩邸(徳川氏六十一万九千石)に出入し、九代藩主宗睦の信任を得ていたが、享和元年、五十五歳の時、十代藩主斉朝によって、儒臣に採用された。そして文化八年、尾張に来て藩校明倫堂の督学となるや、撰挙科目、読書次第を制定し、また戒約五条を定めた。日課として熟読すべき書は、悉く冢田自註の十三経書を使用させ、且つ門下生を教授や典籍に任命するなど、一藩の学風は大峰学へと変革した。そして学風の自分と異なる者を排斥して学職につかせなかった。人となり豪邁剛直、学は漢学・朱子学・陽明学・徂徠学・仁斎学のいずれにも偏らず、古註を主としたいわゆる冢田学を組織した。そして等身にも及ぶ多くの著作を残した。教え方は懇切丁寧、講説もうまくて従学する者が多かった。天保三年三月二十一日、卒中で没。八十八歳。著全部で五十余部二百余巻にもなる。その中で『聖道合語』『聖道得門』『聖道弁物』『解慍』『多門上疏』『随意録』が『日本儒林叢書』に収められている。『正朔断惑編』は『日本随筆集成』に入っている。『作詩質的』が『日本詩話叢書』。(三百藩家臣人名事典)
墓碑銘は「大峯塚田先生墓」。碑文あり。
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冢田大峰墓所 |
冢田大峰の墓 |
ゆかりの人物リンク |
名前 |
関係 |
補足 |
墓所 |
写真 |
石川朝陽 |
弟子 |
江戸中期後期の庄内藩士、儒学者 |
山形県鶴岡市 |
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市川鶴鳴 |
寛政の五鬼 |
江戸中期の漢学者、寛政の五鬼 |
東京都港区 |
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亀田鵬斎 |
寛政の五鬼 |
江戸中期後期の漢学者、寛政の五鬼 |
東京都台東区 |
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千葉逸斎 |
弟子 |
江戸後期の一関藩士、儒学者 |
情報求む |
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冢田旭嶺 |
父 |
江戸中期の漢学者、儒医 |
名古屋市千種区 見あたらず |
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冢田謙堂 |
養子 |
幕末の儒学者、水戸弘道館総裁代、尾張藩校明倫堂督学 |
名古屋市千種区 |
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徳川斉朝 |
主君 |
江戸時代後期の大名(尾張藩)、10代藩主 |
名古屋市東区 残骸のみ
遺骨は瀬戸市 |
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豊島豊洲 |
寛政の五鬼 |
江戸中期後期の漢学者、寛政の五鬼 |
東京都新宿区 |
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林南涯 |
同僚 |
江戸時代後期の尾張藩士、明倫堂督学 |
名古屋市千種区 |
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深沢万 |
門人 |
幕末の尾張藩士 |
名古屋市千種区 |
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正木梅谷 |
門人 |
江戸時代後期の尾張藩士、儒学者 |
名古屋市千種区 |
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山本北山 |
寛政の五鬼 |
江戸中期後期の漢学者、竹堤吟社、寛政の五鬼 |
東京都文京区 |
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