名前 |
冢田謙堂 |
よみ |
つかだけんどう |
生年 |
文化元年(一八〇四) |
没年 |
明治一年一月二十一日(一八六八) |
場所 |
愛知県名古屋市千種区 |
分類 |
尾張藩儒学者 |
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略歴 |
名は愿、字は季愨、一の号は雄鳳、愨四郎と称す。尾張の士渡辺三郎兵衛美綱の第三子なり。幼より学を好みて、冢田大峯に学ぶ。大峯早く其長子次子を喪ふ、文政十年謙堂年二十四、大峯竟に己の業を継ぐ可き者と為し、次子秀の女に配して嗣となす、依りて明倫堂監生に擢でられ俸四十俵を賜ふ。十二年典籍並に進み、五十俵を賜ひ、天保三年五月大峯の遺跡百五十俵を賜ひて、典籍本役に昇る。十二年十一月教授に進み、弘化四年其学業に精励せると、永く江戸の藩邸に勤仕して弘道館総裁代を兼ね、館中の監督其宜しきを得たるとを賞して五十俵を加賜す。嘉永五年儒者となり、班を長園爐裏番組頭の次に列す。安政六年書物奉行に転じ、文久元年十二月明倫堂督学に陞る。翌年十二月手筒頭格書物挙行に遷り、明治元年渡辺新左衛門の斬らるゝや、坐して死を賜ふ。実に正月二十一日なり。人となり蛮直にして品行方正、坐作進退悉く礼に則る。門人等未だ曾て朝夕其寝臥せるを見ずといふ。死する時年六十五。禅心謙堂居士。(名古屋市史)
墓碑銘は「塚田愿士愨墓」。
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冢田謙堂墓所 |
冢田謙堂の墓 |
ゆかりの人物リンク |
名前 |
関係 |
補足 |
墓所 |
写真 |
浅井篤太郎 |
弟子 |
明治期の医者。 |
名古屋市千種区 |
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冢田大峰 |
養父 |
江戸中期後期の漢学者、寛政の五鬼 |
名古屋市千種区 |
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藤井澹水 |
弟子 |
明治時代の漢学者 |
東京都大田区 |
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大津直行 |
青松葉事件 |
幕末の尾張藩士、維新後名古屋藩大参事、鳥取県権参事 |
名古屋市千種区 |
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石川内蔵允 |
青松葉事件 |
幕末の尾張藩士、青松葉事件で刑死。 |
名古屋市千種区 見あたらず |
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榊原勘解由 |
青松葉事件 |
幕末の尾張藩士、青松葉事件で刑死。 |
名古屋市昭和区 |
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沢井貞増 |
青松葉事件 |
幕末の尾張藩士、青松葉事件で刑死。 |
名古屋市千種区 |
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大道寺直良 |
青松葉事件 |
江戸時代後期の尾張藩家老、青松葉事件で永蟄居 |
名古屋市千種区 見あたらず |
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武野信邦 |
青松葉事件 |
幕末の尾張藩士、青松葉事件で刑死。 |
名古屋市千種区 |
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寺尾基之 |
青松葉事件 |
幕末の尾張藩士、青松葉事件で刑死。 |
名古屋市昭和区 |
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成瀬正順 |
青松葉事件 |
幕末の尾張藩士、青松葉事件で刑死。 |
名古屋市千種区 見あたらず |
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馬場信広 |
青松葉事件 |
幕末の尾張藩士、青松葉事件で刑死。 |
名古屋市千種区 見あたらず |
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林信政 |
青松葉事件 |
幕末の尾張藩士、青松葉事件で刑死。 |
名古屋市昭和区 |
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松原直富 |
青松葉事件 |
幕末の尾張藩士、青松葉事件で刑死。 |
名古屋市千種区 見あたらず |
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間宮正万 |
青松葉事件 |
幕末の尾張藩士、青松葉事件の仕掛人、維新後尾張徳川家の顧問 |
名古屋市昭和区 |
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安井秀親 |
青松葉事件 |
幕末の尾張藩士、青松葉事件で刑死。 |
名古屋市千種区 |
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横井時保 |
青松葉事件 |
幕末の尾張藩士、青松葉事件で刑死。 |
名古屋市千種区
愛知県海部郡八開村 |
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渡辺在綱 |
青松葉事件 |
幕末の尾張藩家老、通用青松葉。青松葉事件で刑死。 |
名古屋市千種区 |
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ゆかりの地リンク |
場所 |
住所 |
説明 |
写真 |
明倫堂跡 |
愛知県名古屋市
中区丸ノ内2-3
那古野神社
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九代藩主宗睦が藩士の子弟の教育のため天明三年(一七八三)に設立した学問所。初代総裁は細井平洲。明治四年(一八七一)七月二十八日廃藩置県の結果廃校となった。
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