名前 |
浅井篤太郎 |
よみ |
あさいあつたろう |
生年 |
嘉永元年十一月三十日(一八四八) |
没年 |
明治三十六年一月十五日(一九〇三) |
場所 |
名古屋市千種区 |
分類 |
尾張藩医・医者 |
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略歴 |
名は正典、字は土地、国幹、淡海、独善庵等の諸号あり。初め徳太郎と称し、後篤太郎と更む。樺園の長子にして嘉永元年十一月朔日生る。年甫めて六、句読を父に受け、又奥田大観に学ぶ。而して十歳に至るも、受業の書一字を記憶することなし。樺園之を憂へ、一日膝下に召して苦ろに訓練し、父祖の栄を失墜せざるを似てす。是に於て翻然として悟り、発憤励精、家学を攻むるの暇を以て、古学を冢田謙堂に学ぶ。既にして転じて程朱の学を中山梅軒、細野要斎に学び、脉法を河田春意に受く。而して専ら大学を自修すること二年、略ぽ医学の全体に通じて儒道の大要を得たり。是より儒医の二道を専巧し困学琢礪すること年あり、名藩内に聞ゆ。慶応二年藩命ずるに医学館代講を以てす。明治二年医学館の廃せらるゝに及び、藩学明倫堂に入り、幾もたくして漢学二等助教試補に擢でられ、兼ねて塾舎を監督す。後漢学二等助教、中学二等助教となる。時に教科書中西洋の学を加ふるを以て之に快からずして遂に其職を辞す。乃ち居を知多都中島村に移して医を業とし、九年三月再び名古屋園井町の旧邸に帰り、又医術を行ふ。一日書を県令安場保和に呈じて漢医継続の事を論ず。而して其の納れられざるを察し、闢蕪学校を立てて、孔朱の学を教授す。後改めて尚絅学舎と称す。十二年一月旧門下の諸医、及び県内の漢法医三百人を糾合して博愛病院を立て、推されて其社長となる。篤太郎居常皇漠医学の道統を伝ふるを以て念となし、檄を天下に飛ばして同志を募り、度々書を内務省に上りて請願する所あり。又元老院に請ふて興道の事を以てす、而して一も省みられず、此間官に講ひて専門皇漠医学校を設け、又和漢医学講習所を置き、東京温知病院等を創設す。廿一年九月第六皇女常宮の生誕したまふや、宮内省診御脉を命ず、次いで御養育法の改革に件ひて其職を解かれ、金若干を賜ふ。帝国議会の開かるゝや、全国の同志と策応して請願書を呈すること二十余通、署名の人員十万に至る。篤太郎皇漢医道復興の為めに心力を傾注すること十有八年、百難を胃し萬苦を嘗め、東西に遊説して維れ日も足らず。全国の漢医其名を知り其志を慕ひて皆之に依頻す。明治三十六年一月十五日、東京に没す、享年五十六。正徳院国幹日耀居士と法諡す。(名古屋市史)
墓碑銘は「浅井国幹先生之墓」。
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浅井家墓所 |
浅井篤太郎の墓 |
浅井篤太郎の墓 |
ゆかりの人物リンク |
名前 |
関係 |
補足 |
墓所 |
写真 |
浅井樺園 |
父 |
幕末〜明治時代の尾張藩士、医者、浅井家六代 |
名古屋市千種区 |
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浅井紫山 |
祖父 |
江戸時代後期の尾張藩士、本草家、医者、浅井家五代 |
名古屋市千種区 |
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浅井貞庵 |
曾祖父 |
江戸時代後期の尾張藩士、医者、浅井家四代 |
名古屋市千種区 |
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奥田大観 |
親交 |
明治時代の儒家、奥田桐園養子 |
名古屋市千種区 |
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河田春意 |
師 |
情報求む |
情報求む |
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冢田謙堂 |
師 |
幕末の儒学者、水戸弘道館総裁代、尾張藩校明倫堂督学 |
名古屋市千種区 |
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中山梅軒 |
師 |
幕末〜明治初期の儒学者 |
愛知県東海市 |
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服部培園 |
親交 |
明治時代の漢方医 |
名古屋市千種区 |
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細野要斎 |
師 |
幕末の儒学者、尾張藩校明倫堂督学 |
名古屋市千種区 |
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安場保和 |
県令 |
明治期の政治家、男爵、福岡県令、愛知県知事など |
東京都文京区 |
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ゆかりの地リンク |
場所 |
住所 |
説明 |
写真 |
医学館址 |
愛知県名古屋市
中区錦2-19
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尾張藩医師の総元締であった浅井家が、医者養成のために18世紀後半、自邸内に設けた私塾。
藩も医学館の運営に力をいれ、医師の資格試験を年二回行っていた。
毎年六月十日にここで薬品会が開催され、東洋、西洋の珍しい動植物や鉱物が展示され、一般にも公開されていた。
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