人物総覧 ほ 尾張藩 儒学者

名前 細野要斎
よみ ほそのようさい
生年 文化八年三月十五日(一八一一)
没年 明治十一年十二月二十三日(一八七八)
場所 愛知県名古屋市千種区
分類 尾張藩士・儒学者
略歴

 要斎は号で、本名は忠陳。はじめ忠陳、のちに為蔵、さらに仙之右衛門、再び弟蔵と称した。父は忠明(仙之右衛門)。細野家は代々武をもって藩に仕える。家禄は百五十石。要斎は、幼い頃より学を好み、儒学・書道を修めるとともに、垂加神道の伝を受ける。天保十三年八月、藩主徳川斉荘の時家を継ぎ、馬廻組・大番組としてはじめて仕えた。嘉永六年五月、学才を認められ、藩校明倫堂の典籍の職を任ぜられる。安政四年十一月、病気により、典籍の職を辞す。明治元年二月、明倫堂に特命教授として復職する。この時、俸二十口を別に賜う。同年十一月、藩主徳川義宜の侍講となる。ついで、明倫堂の督学に進む。明治二年八月、督学の職を辞す。明治維新後、新しい時代に即応して、諸藩で教育改革の働きが活発となっていたが、尾張藩でも、明治二年十二月、藩の学制の改革に着手した。その結果、明倫堂の姿も改められ、要斎は新しい明倫堂に漢学教授として迎えられた。明治三年、病気により明倫堂を辞職し、その後は自宅にて人々に教授する。またそのかたわら、尾張藩先人達の業績などを記した『尾張名家誌』を著すのに力を注いだ。明治十一年十二月二十三日没す。享年六十八歳。主な著書には『尾張名家誌』『蕉窓余録』などがある。天領院要斎閑翁居士。(三百藩家臣人名)
 墓碑銘は「要斎細野先生墓」。碑文あり。

細野要斎墓所

細野要斎の墓

細野要斎墓誌(大光院境内)

ゆかりの人物リンク
名前 関係 補足 墓所 写真
浅井篤太郎 明治時代の医者 名古屋市千種区
朝岡柳昌 門弟 幕末〜明治初期の尾張藩士、俳人 名古屋市千種区
植木屋曽吉 賞賛 江戸時代後期の植木屋、本草学者 情報求む
尾崎良知 門弟 幕末の尾張藩士、維新後徳川家の顧問 名古屋市昭和区
片桐助作 弟子 幕末〜大正期の開拓者、北海道八雲開拓 情報求む
小沢錦水 交友 江戸時代後期の医者、蘭学者 愛知県一宮市(2ヶ所)
小寺玉晁 親交 幕末〜明治初期の俳人、画家 名古屋市千種区 見あたらず
佐藤牧山 親交 幕末〜明治中期の儒学者、尾張藩校明倫堂督学 東京都新宿区
首藤允中 親交 江戸時代後期の尾張藩士、好学者 名古屋市千種区
田中寅亮 交友 江戸時代後期の尾張藩士 情報求む
徳川斉荘 主君 江戸時代後期の大名(尾張藩)、12代藩主、徳川家斉の14男、田安家4代 名古屋市東区 残骸のみ
遺骨は瀬戸市
徳川義宜 主君 江戸時代後期の大名(尾張藩)、16代藩主 愛知県瀬戸市 遺骨
東京都新宿区 空墓
中村修 門弟 幕末の尾張藩士、維新後初代名古屋市長 名古屋市昭和区
平野広臣 交友 江戸時代後期の尾張藩医、春策。 名古屋市天白区
深田香実 江戸時代後期の儒者、九皐の長男、尾張藩書物奉行、『尾張志』編纂 名古屋市天白区
細野栗斎 息子 明治期の教師 名古屋市千種区
矢部典則 明治期の国学者 名古屋市千種区


ゆかりの地リンク
場所 住所 説明 写真
明倫堂跡 愛知県名古屋市
 中区丸ノ内2-3
   那古野神社
 九代藩主宗睦が藩士の子弟の教育のため天明三年(一七八三)に設立した学問所。初代総裁は細井平洲。明治四年(一八七一)七月二十八日廃藩置県の結果廃校となった。

細野要斎宅跡 愛知県名古屋市
 東区長久寺町
名古屋市東区永久寺の北側が旧居跡です。没するまで住んでいたそうです。
長久寺山門前に説明板があります。

旧居跡


説明板