名前 |
中村修 |
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よみ |
なかむらおさむ |
生年 |
天保十四年十一月二十五日(一八四三?) |
没年 |
大正四年六月六日(一九一五) |
場所 |
愛知県名古屋市昭和区 |
分類 |
尾張藩士・政治家 |
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略歴 |
はじめ政和といい、通称は修之進、のちに修と改めた。父は十左衛門で天保十四年十一月名古屋に生まれた。幼い頃から藩儒細野要斎の下で学ぶが、幕末の急変する時代に適応できないと要斎の門を去り、田宮如雲、丹羽賢、田中不二麿などとともに尊王壊夷運動の中心的役割を果たした。丹羽、田中などと連署して尊王撰夷論についての建白書を藩老に出し、尾張藩の勤王論に大きな影響を与えた。慶応元年家督を継ぎ藩の馬廻役となるが、家老成瀬隼人正正肥に従って大坂へ赴き、諸藩の勤王志士と論を交えた。同年十月には一旦帰藩し、藩校明倫堂の監生に就任するが、同三年六月には京都留守居を命ぜられ、機密係となり公卿や諸藩への使者として活躍した。同年十一月尾張十七代藩主慶勝上洛のとき、京都において維新を実現する実動隊となり、慶勝を助けた。明治元年二月、尾張藩目付に任ぜられ、七月には用人並となった。明治二年十月、名古屋藩権大参事となるが明治四年廃藩置県で退官し、十二月岡山県権参事に就任以後、宮内省御用掛、東京および函館の裁判所検事を歴任し、十九年大審院詰を命ぜられ、従六位に叙された。明治二十二年市制町村制法をうけて名古屋市が誕生すると市長に推され、初代名古屋市長として市政の整備に尽力した。翌二十三年市長を辞し、公共事業に力をそそぐとともに、徳川家に尽くした。大正四年六月六日病死した。家督は長男復太郎が継いだ。(三百藩家臣人名事典)
墓碑銘は「正五位中村君之墓」。
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中村修墓所 |
中村修の墓 |
ゆかりの人物リンク |
名前 |
関係 |
補足 |
墓所 |
写真 |
尾崎良知 |
同志 |
幕末の尾張藩士、維新後徳川家の顧問 |
名古屋市昭和区 |
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田中不二麿 |
同志 |
幕末の尾張藩士、維新後政治家、フランス公使、子爵。夢山 |
東京都あきる野市 |
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田宮如雲 |
同志 |
江戸時代後期の尾張藩士、尊攘派の中心人物。桂園。維新後名古屋藩大参事 |
名古屋市昭和区 |
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徳川慶勝 |
主君 |
江戸時代後期の大名(尾張藩)、14代藩主、17代当主 |
愛知県瀬戸市 遺骨
東京都新宿区 空墓 |
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成瀬正肥 |
上司 |
幕末の尾張藩付家老、犬山藩主、明治時代の華族(子爵) |
名古屋市千種区
岐阜県犬山市
千葉県船橋市 |
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丹羽賢 |
同志 |
幕末の尾張藩士、維新後三重県権令、従五位、花南。森春濤四天王 |
東京都台東区 |
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長谷川敬 |
同志 |
江戸時代後期の尾張藩士、財政を再建 |
名古屋市昭和区 |
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細野要斎 |
師 |
幕末の儒学者、尾張藩校明倫堂督学 |
名古屋市千種区 |
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ゆかりの地リンク |
場所 |
住所 |
説明 |
写真 |
市役所址 |
愛知県名古屋市
中区栄5丁目
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明治22年10月1日市制施行、明治23年3月19日に市役所開庁式が行われた。場所は現在の中区役所付近になる。最初の市役所は明治40年10月24日に焼失した。
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