人物総覧 ふ
 尾張藩 儒学者

名前 深田香実
よみ ふかだこうじつ
生年 安永二年(一七七三)
没年 嘉永三年六月十九日(一八五〇)
場所 名古屋市天白区
分類 尾張藩士・儒学者
略歴

 尾張藩儒学者。国奉行・寺社奉行を努めた深田九皐(正益)の長子として生まれた。九皐は、円空を祖とする深田家の三代・慎斎の第二子。香実は名を正韶、字を子縄といい、初め助太郎、のち増蔵と通称した。香実はその号で、円空遺愛の悔(後水尾天皇より"香実悔"と賜号)にちなむものであると伝えられる。ほかに豊坂翁の号もある。若い頃石川香山に師事、二十二歳で中村習斎に入門した。漢詩は岡田新川に学んだ。垂加流神道・書法・二条流寄道などもあわせ学び、諸芸に熟達したが、とりわけ易学に秀でたという。江戸において十代藩主斉朝の持読に任じられ、『稽徳編三十巻』を撰進した。尾張に帰国後は諸職を経たのちの天保年間、書物奉行となった。この時期に、尾張の代表的な地誌として知られる『尾張志』を編纂した。また、天保初年には香実を盟主とする趣味家の集り"天保会"が発足し、香美の没年まで二十二年間にわたり、多種多様の業績を残した。この会の記録が『天保会記』である。香実にはこのほかにも編著書が非常に多く、代々儒学を家学として伝えた深田家にあっても傑出した人物であると評される。その業績は国文学の方面にも及び、国漢兼学の学風を推進した一人とみることができる。門人に細野要斎・小出聚斎などがいるが、要斎の随筆『感興漫筆』などには、香実の博学ぶりを伝える記事が多く見える。嘉永三年二月、休暇をとって京都に遊び、帰国後病味に伏し、六月十九日七十八歳で死去。(三百藩家臣人名事典)
 墓碑銘は「宝樹院栄誉香実居士」。


深田香実墓所

深田香実の墓
  
ゆかりの人物リンク
名前 関係 補足 墓所 写真
深田慎斎 祖父 江戸時代中期の尾張藩士、儒者 名古屋市天白区
深田九皐 江戸時代中期〜後期の尾張藩士、儒者、慎斎の第二子 名古屋市天白区
深田厚斎 叔父 江戸時代の尾張藩士、儒者、慎斎の長子 名古屋市天白区
深田精一 長男 江戸時代後期の儒者、香実の長男、金鉄党 名古屋市天白区
浅井樺園 門人 幕末〜明治時代の尾張藩士、医者、浅井家六代 名古屋市千種区
石川香山 江戸時代中期〜後期の儒者、尾張藩校明倫堂督学 名古屋市緑区
石川魯庵 交友 江戸時代後期の尾張藩儒学者、尾張藩校明倫堂総裁 名古屋市緑区
岡田新川 江戸時代中期の儒学者、尾張藩校明倫堂督学 名古屋市千種区
小沢列根 尾張志 江戸時代後期の尾張藩手代、俳人 名古屋市千種区  見あたらず
首藤允中 友人 江戸時代後期の尾張藩士、好学者 名古屋市千種区
徳川斉朝 主君 江戸時代後期の大名(尾張藩)、10代藩主 名古屋市東区 残骸のみ
遺骨は瀬戸市
中尾義稲 門人 江戸時代後期の国学者、『尾張志』編纂 名古屋市千種区
中村習斎 江戸時代中期の儒学者、蟹養斎高弟 名古屋市瑞穂区
幡野忠孚 親交 江戸時代後期の国学者 名古屋市千種区  見あたらず
細野要斎 門弟 幕末の儒学者、尾張藩校明倫堂督学 名古屋市千種区
村井泰翁 友人 江戸時代後期の尾張藩医 名古屋市千種区


ゆかりの地リンク
場所 住所 説明 写真
明倫堂跡 愛知県名古屋市
 中区丸ノ内2-3
   那古野神社
 九代藩主宗睦が藩士の子弟の教育のため天明三年(一七八三)に設立した学問所。初代総裁は細井平洲。明治四年(一八七一)七月二十八日廃藩置県の結果廃校となった。