名前 |
深田精一 |
よみ |
ふかだせいいち |
生年 |
享和二年(一八〇二) |
没年 |
安政二年十二月二十七日(一八五五) |
場所 |
名古屋市天白区 |
分類 |
尾張藩士・儒学者 |
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略歴 |
深田家七代。尾張藩儒官深田香実の長子として生まれた。名・字・通称ともに精一といい、百信庵・放下叟・木石居と号した。幼い頃から父香実に従って江戸で学び、特に漢詩にすぐれて十歳の頃には神童と呼ばれた。兵学は中山訓練に学び、この方面でも頭角をあらわした。天保十年、尾張藩では十一代藩主斉温の死去に際し、斉温に子がなかったことから将軍家斉の十一男斉荘(実は斉温の兄)が十二代藩主となったが、これを是とする江戸勤番の藩士と幕府より藩主を迎えることに反対し、支藩の高須家から松平秀之助(のちの十四代藩主慶勝)を擁立すべきだとする在藩の者たちの間に対立が生じた。松平秀之助を推す一派は金鉄組とよばれ反幕府の姿勢を示したが、精一もこれに加わり、『踰等放言』を著して同志に示した。また、この頃(四十歳頃)には、父香実と学風が異なるとはいうものの多く尊敬を集め、学者・文人たちとも頻繁に交流し、彼らの求めに応じて序・跋文などに筆をとることが多かった。特に、岡田文園・野口梅居などによる『尾張名所図会』に多大な協力を寄せたことが伝えられている。煎茶法にも詳しく、『煎茶訣』を著した。安政二年、病床にあった時は十四代藩主慶勝から氷砂糖など見舞の品が届けられたという。同年十二月二十七日、五十四歳で死去。(三百藩家臣人名事典)
墓碑銘は「百信薦行誉精一居士」
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深田精一墓所 |
深田精一の墓 |
ゆかりの人物リンク |
名前 |
関係 |
補足 |
墓所 |
写真 |
市岡和雄 |
同志 |
江戸時代中期の尾張藩士、金鉄党 |
名古屋市千種区 |
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岡田文園 |
尾張名所図会 |
情報求む |
情報求む |
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徳川慶勝 |
主君 |
江戸時代後期の大名(尾張藩)、14代藩主、17代当主 |
愛知県瀬戸市 遺骨
東京都新宿区 空墓 |
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野口梅居 |
尾張名所図会 |
情報求む |
情報求む |
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幡野忠孚 |
親交 |
江戸時代後期の国学者 |
名古屋市千種区 見あたらず |
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深田九皐 |
祖父 |
江戸時代中期〜後期の尾張藩士、儒者、慎斎の第二子 |
名古屋市天白区 |
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深田厚斎 |
叔父 |
江戸時代の尾張藩士、儒者、慎斎の長子 |
名古屋市天白区 |
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深田香実 |
父 |
江戸時代後期の儒者、九皐の長男、尾張藩書物奉行、『尾張志』編纂 |
名古屋市天白区 |
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深田慎斎 |
曾祖父 |
江戸時代中期の尾張藩士、儒者 |
名古屋市天白区 |
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藤井行権 |
門下 |
江戸時代後期〜明治中期の僧侶。国学者 |
名古屋市千種区 |
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ゆかりの地リンク
深田精一旧宅跡 中区 錦2 |