名前 |
中尾義稲 |
よみ |
なかおぎとう(よしね) |
生年 |
天明二年?(一七八二?) |
没年 |
嘉永二年十二月二十五日(一八四九) |
場所 |
愛知県名古屋市千種区 |
分類 |
尾張藩士・国学者 |
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略歴 |
先手組同心。通称八郎右衛門、号竹廼屋、多計能屋。本居春庭・大平に師事。天保九年に藩校明倫堂謁者となり、岡田啓と共に『尾張志』を編纂。義稲は啓と共に各地を巡歴し、『張州府志』を補訂し、弘化三年全六十巻を藩主慶臧に献上した。『尾張志』は、名古屋・熱田以下郡別に町村・名所・旧跡・社寺・物産・人物などについて平易な和文で記したもので、都市部明細図十四枚が付属している。『尾張志』寺社の記述あたりに義稲の調査の成果が示され、序には「中尾義稲 好固学通古書」とある。廻村の際、富裕な八事村ではご馳走が沢山出たが、赤池村では汁に塩魚を添えたのみで実に質素、といった体験も貴重なものであった。弘化四年十一月二十三日、『尾張志』編纂関係者八人が『尾張志』用懸で用人の滝川又左衛門宅に招かれ、詩歌を詠んだ。義稲の「此ふみをかきつくせとも所々拾ひのこせる事の多かる」は、奥ゆかしい人柄を偲ばせる。勤勉篤学の人で、「其容貌言語共に人をして上古の人を想はしむる」といわれたから、おっとりした人であったらしい。明倫堂和学教授のときは役人街に居を移したものの、その後は山口町辺、さらに前津小林に住んだ。嘉永二年十二月二十五日、六十八歳で死去。著書に『尾張旧記類従』『尾張旧地考』『尾張国帳神社考』『尾張氏系譜』『尾張新風土記』『尾張続風土記』『尾張国式社考』『尾張名所和歌集』『尾張文書通覧』『国司歴任』『古訓大祓詞』『地名通覧』他がある。紹誉隆巌浄興居士。(三百藩家臣人名事典)
墓碑銘は「中尾大人墓」。碑文あり。
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中尾義稲墓所 |
中尾義稲の墓 |
ゆかりの人物リンク |
名前 |
関係 |
補足 |
墓所 |
写真 |
岡田啓 |
同僚 |
江戸時代後期の国学者 |
名古屋市中川区 |
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徳川慶臧 |
主君 |
江戸時代後期の大名(尾張藩)、13代藩主 |
名古屋市東区 残骸のみ
遺骨は瀬戸市 |
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松井雨白 |
弟子 |
江戸時代後期〜明治初期の尾張藩士、俳人 |
名古屋市千種区 見あたらず |
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本居春庭 |
師 |
江戸時代中期の国学者、本居宣長の長男 |
三重県松阪市 |
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本居大平 |
師 |
江戸時代中期の国学者 |
和歌山県和歌山市 |
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