人物総覧 あ 尾張藩 医者 本草家

名前 浅井紫山
よみ あさいしざん
生年 寛政九年三月三日(一七九七)
没年 万延元年正月三日(一八六〇)
場所 名古屋市千種区
分類 尾張藩医・本草家
略歴

 尾張藩医浅井家五代。幼名は桃太郎、のちに董太郎、諱は正翼(まさしげ)、字は亮甫。紫山、希聖斎と号した。尾張藩医浅井家四代貞庵の長子として生まれる。江戸の昌平黌で学び、文政10年、寄合医、同12年、父貞庵が没すると家禄二百石を継ぎ、番医となる。天保2年(1831)二百石加増。同年家塾静観堂講舎を医学館と改称。翌年、奥詰医師、次いで薬園奉行。嘉永元年奥医師に進む。年に春と秋の二回、藩の諸医官の試問を行い、町医を開業するにも浅井家の許可を必要とした。また毎年六月十日に、医学館で薬品会を開催し、動、植、鉱物の奇品、外国の産物を集めて、一般に公開した。紫山は古方医、儒教的教養の立場から蘭学を敵視したのに対し、弟の玄庵は蘭学を好み13歳で江戸へ出奔し、のちに名古屋に戻ったが、その後もたびたび無断出奔を繰り返したため蟄居となり、25歳で病死した。紫山は晩年奥医師を免ぜられ、寄合医となり、加禄二百石を削られた。諡は嶷然院紫山日恭居士。
 墓碑銘は「浅井紫山之墓」。

浅井家墓所
 
浅井紫山の墓
  
ゆかりの人物リンク
名前 関係 補足 墓所 写真
浅井篤太郎 明治時代の医者 名古屋市千種区
浅井樺園 長男 幕末〜明治時代の尾張藩士、医者、浅井家六代 名古屋市千種区
浅井貞庵 江戸時代後期の尾張藩士、医者、浅井家四代 名古屋市千種区
石井隆[蒼] 門弟 江戸時代後期〜明治初期の医学者 名古屋市千種区
花橋春渓 弟子 幕末の医者、明治期の教員 情報求む
河村乾堂 交友 江戸時代後期の国学者、儒者、河村秀根の次男 名古屋市千種区
徳川斉朝 主君 江戸時代後期の大名(尾張藩)、10代藩主 名古屋市東区 残骸のみ
遺骨は瀬戸市
林良益 同僚 江戸時代後期の医者、茶人 名古屋市千種区
山崎玄庵 江戸時代後期の医者、高野長英の逃亡を助け罰せられる 名古屋市千種区


  
ゆかりの地リンク
場所 住所 説明 写真
医学館址 愛知県名古屋市
 中区錦2-19
 尾張藩医師の総元締であった浅井家が、医者養成のために18世紀後半、自邸内に設けた私塾。
 藩も医学館の運営に力をいれ、医師の資格試験を年二回行っていた。
 毎年六月十日にここで薬品会が開催され、東洋、西洋の珍しい動植物や鉱物が展示され、一般にも公開されていた。