名前 |
林良益 |
よみ |
はやしりょうえき |
生年 |
天明七年八月三十一日(一七八七) |
没年 |
弘化三年十一月七日(一八四六) |
場所 |
愛知県名古屋市千種区 |
分類 |
医家・茶人 |
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略歴 |
名は文幹、字は士用、清雅と号す。良益は其通称なり。藩医林赤山の長子にして、母は服部氏。天明七年八月晦日生まる、天資聡敏にして尋常に卓越し、真率にして細事に拘らず。儒を河村乾堂に、医を浅井貞庵に、脉術を河田華山に学ぶ。文化七年に父没す。良益家を継ぎて寄合医師となり、医術大に行はる。文政五年六月、藩主斉朝、将軍家斉の子斉温を養ひて嗣となし、良益をして江戸に赴かしめ、秩を加へて斉温の奥医師となす。翌年三月、母の病を以て辞して還り、遂に転じて斉朝の奥医師となる。良益、官守の為に縛せられ、広く治を施すこと能はざるを憂へ、又辞するに病を以てし、自ら、乞ひて寄合医師となる。是に於て刀圭大に行はれ、四方招請する者概ね虚日なし。故に家道益々殷なり。平素茶事を嗜み、又書画を愛す。家甚だ富めるを以て、用ふる所の器玩、皆其粋を聚む。之を以て後其遺品の商店の手に帰するものは、世人争ひて之を求め、為めに價を償すといふ。弘化元年、又医学館世話役に任ぜられ、特に金ありて浅井紫山と与に国中医師の臧否を検す。弘化三年十一月七日没す。享年六十。
墓碑銘は「応到院清雅日進居士」。碑文あり。
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林良益の墓 |
ゆかりの人物リンク |
名前 |
関係 |
補足 |
墓所 |
写真 |
浅井紫山 |
同僚 |
江戸時代後期の尾張藩士、本草家、医者、浅井家五代 |
名古屋市千種区 |
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浅井貞庵 |
師 |
江戸時代後期の尾張藩士、医者、浅井家四代 |
名古屋市千種区 |
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河田華山 |
師 |
情報求む |
情報求む |
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河村乾堂 |
師 |
江戸時代後期の国学者、儒者、河村秀根の次男 |
名古屋市千種区 |
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鈴木玄道 |
弟子 |
江戸時代後期〜明治初期の医者、成瀬家御殿医、十二世 |
愛知県犬山市 |
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徳川斉朝 |
主君 |
江戸時代後期の大名(尾張藩)、10代藩主 |
名古屋市東区 残骸のみ
遺骨は瀬戸市 |
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徳川斉温 |
主君 |
江戸時代後期の大名(尾張藩)、11代藩主 |
名古屋市東区 残骸のみ
遺骨は瀬戸市 |
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