人物総覧 は 尾張藩 儒学者

名前 林南涯
よみ はやしなんがい
生年 安永四年(一七七五)
没年 天保十二年一月八日(一八四一)
場所 愛知県名古屋市千種区
分類 尾張藩士・儒学者
略歴

 名は維祺、字は介父、南涯は其号なり、通称は彦八、日比野巌月の第二子にして、林華嶽の嗣となる。初め礒谷滄洲に従学し、文化元年馬廻となり、三年大番に遷り、四年明倫堂典籍となる。六年数授に遷り、十二年納戸と為り、十四年復教授と為る、天保三年、冢田大峯の後を承けて督学に進み、前後数々賜米を加へ、本禄と通じて三百石に至る、職に在る事十年徳望甚だ隆し。南涯、人と為り温雅謙冲、弘量衆を容る、人或は書を著さむことを勧む、乃ち答へて曰く、後世学者、大概軽薄にして、猥りに著述を為し、以て其才を誇る、余が如き素より陋劣謂ふに足らず、況んや、先輩の書汗牛充棟、偶々我が見る所は、古人皆己に之を言ふ、何を苦んでか著述をこれ為さむと、是々以て平生作る所の詩文も亦稿を留めず。南涯、身を処する極めて約にして、貧を[貝周]はすこと極めて厚し、書生家貧にして志篤き者は、則ち之を塾中に寄食せしめ、撫恤最も至る。老て子無し、同族の子重尚を養ひて嗣となす、之を待つに寛恕、督責を加へず、毎に人に語りて曰く、人各々能不能あり、皆其性を養ひて、以て天職に供するのみ。己が矩[矢隻]を立てゝ人の性質を矯むる事は、余が為さざる所なりと、平居恰恰として、酒を飲むに限りあり。酔ひて能く温克、家人と雖も未だ嘗て其属辞慍色を見ずといふ。南涯晩年中風を患ひ、歳を歴て殆ど癒ゆ、天保十二年閏正月八日午時将さに食せむとして荻復た発り、箸を投じて逝く、享年六十七。政忠院雪山自白居士。
 墓碑銘は「南涯林先生之墓」。碑文あり。


林南涯墓所


林南涯の墓
  
ゆかりの人物リンク
名前 関係 補足 墓所 写真
礁谷滄洲 尾張藩儒学者 名古屋市千種区 見あたらず
冢田大峰 江戸中期〜後期の漢学者、寛政の五鬼 名古屋市千種区
三村蘭斎 江戸中期〜後期の尾張藩士 名古屋市千種区


ゆかりの地リンク
場所 住所 説明 写真
明倫堂跡 愛知県名古屋市
 中区丸ノ内2-3
   那古野神社
 九代藩主宗睦が藩士の子弟の教育のため天明三年(一七八三)に設立した学問所。初代総裁は細井平洲。明治四年(一八七一)七月二十八日廃藩置県の結果廃校となった。