名前 |
和田伴兵衛 |
よみ |
わだばんべえ |
生年 |
享保十三年(一七二八)
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没年 |
文化十一年十月十六日(一八一四) |
場所 |
山形県鶴岡市 |
分類 |
庄内藩士・儒学者 |
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略歴 |
庄内藩士中台八郎兵衛(直綱)の二男として生まれ、のち和田七郎兵衛(政和)の養子となった。幼名九十弥、諱は廉、字は子表、号を子豹、伴平、跼[足冀]と称した。幼少から学問を好み、宝暦十一年藩命により江戸の儒学者松崎観海に学び、同十三年江戸で家督を継ぎ十両三人扶持を給され、供小姓を命ぜられた。七代藩主忠徳に書を講じ、家中の子弟の素読指南を勤め、安永元年賄方、次いで家中由緒改役、雑用方を歴任し天明七年代官となった。弁舌に優れ、田法に通暁し算術が得意であった。性剛直で藩主に進講中、諷諌し物議をかもしたこともあった。寛政元年郡代に意見書を提出し、庄内藩の凶作時の年貢減免規定が不当で、郡代は盗人同然と批判し郡代服部八兵衛を激怒させたこともあった。寛政七年春、伴兵衛は温海組の窮乏を黙視し難く不納米三千二百七十六俵を独断で切り捨てた。農民は伴兵衛の生祠を砂谷に建てて感謝し、代官の中にも共感する者が少なくなかった。伴兵衛は狩川通代官から立い会いを依頼され、不納米一万三千二百七十俵を切り捨て、さらに櫛引通の代官からも立ち会いを依頼されたが、郡代白井矢太夫の反対に遭い、実現しなかった。前例のない代官層の造反に、藩は政策の転換を急務と考え、寛政七年五月亀ヶ崎城代竹内八郎右衛門を中老に復帰させ、郡代白井矢太夫と協力し寛政改革を断行させた。伴兵衛は退役隠居となったが、退役の時、鶴岡町民が献じた山浜通救金のうちから百二十五両を着服したとの理由で(本人は無実を主張)同年十二月永蟄居、知行取り上げに処され、嫡子吉次郎(田宮流剣術師範)に十両三人扶持が与えられた。しかし、農民の感謝の念は強く、寛政八年、同十一年、文化九年の三回にわたり赦免運動が行われたが成功しなかった。町方や郷村の富商・豪農に門人が多く交友が広かったが、白井矢太夫とは気が合わず、文化八年白井矢太夫が失脚した時は大いに喜び、鯛を買って家族に振る舞ったという。文化十一年十月十六日没した。享年八十七歳。著書に『鵜[足冀]夜話集』『経義提要』、その他数十巻がある。(三百藩家臣人名事典)
墓碑銘は「跼[足冀]和田先生墓」
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和田伴兵衛墓所 |
和田伴兵衛の墓 |
ゆかりの人物リンク |
名前 |
関係 |
補足 |
墓所 |
写真 |
斎藤荷暁 |
門人 |
江戸時代中期〜後期の庄内藩造酒家、俳人 |
山形県鶴岡市 |
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佐藤市右衛門 |
門人 |
江戸時代中期〜後期の庄内藩豪農 |
山形県鶴岡市 |
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佐藤善三郎 |
名付け |
江戸時代後期の庄内藩豪農、歌人 |
山形県鶴岡市 |
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白井矢太夫 |
不仲 |
江戸時代中期〜後期の庄内藩士、藩校致道館の創設 |
山形県鶴岡市 |
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竹内八郎右衛門 |
政敵 |
江戸時代中期〜後期の庄内藩家老、茂樹。寛政改革を断行 |
山形県鶴岡市 |
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服部八兵衛 |
批判 |
江戸時代中期〜後期の庄内藩士 |
山形県鶴岡市 |
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松崎観海 |
師 |
江戸時代中期の丹波亀山藩、丹波篠山家老、儒者 |
東京都港区 |
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