名前 |
松平君山 |
よみ |
まつだいらくんざん |
生年 |
元禄十年三月二十七日(一六九七) |
没年 |
天明三年四月十八日(一七八三) |
場所 |
愛知県名古屋市千種区 |
分類 |
尾張藩儒者 |
|
略歴 |
尾張藩儒学者。同藩家臣千村作左衛門秀信の子として生まれた。母は堀忘斎の三女で杏庵の孫にあたる。君山は幼名を弥之助・太郎助といい、名は秀雲、字は士竜、太郎左衛門と通称し、君山はじめ竜吟子・冨春山人・吏隠亭・群芳洞・盍簪窩主人など多くの号をもつ。幼い頃から母の薫陶を受けて育った。宝永六年十三歳の時、同藩家臣松平九兵衛久忠の女阿艶(当時五歳)の婿として松平家に入った。正徳二年、正式に松平家の養子となり、享保二年に六代藩主継友に新規御目見。十七歳頃から盛んに漢詩を作り才能を見せた。享保九年二十八歳の時に義父久忠が死去。家禄三百石の内二百五十石を許されて馬廻組に配属された。寛保二年、『年中行事故実考』を撰述。翌年、書物奉行に任ぜられた。延享三年五十歳の時、八代藩主宗勝の命を受け外祖父堀志斎らの遺志を継いで『朝林(日記柳営事実)』を補遺して献上した。続いて翌年には、尾張藩士の系譜集『士林泝』を献上、また『岐阜志略』を著した。寛延元年五十二歳の時、城下の性高院に滞在中だった朝鮮通信使一行を子の霍山とともに訪ね、親しく交流した。この時に唱和された詩が『韓人唱和詩』に収められている。宝暦元年、巾下学問所に出講を命ぜられた。翌年、宗勝の命によって千村伯済らと共に編纂した地誌『張州府志』三十巻が完成。その功により五十石が加増された。なお、『張州府志』は尾張で初めての官撰地誌で、以降の地誌の模範となった。同六年、『濃陽志略』などを編纂。また、書庫吏隠亭を新築した。君山はかなりの蔵書家であって、この書庫には約三千七百冊(堀家から借用した五百冊を含む)の書物が納められていた(『吏隠字書庫概要』)が、君山の蔵書の多くは、その死後(天保年間頃)、藩の奥文庫に納められた(『吏隠亭蔵書目録』)。明和元年六十八歳の時、城下性高院に滞在中の朝鮮通信使一行を、子霍山・孫南山を伴って訪ねた。寛延元年に続く二度日のことで、この時に通信使と交わした詩が、『三世唱和』に収められている。同七年、漢詩集『幣帚集』を刊行、安永五年、『本草正譌』を刊行し幅広い才能を見せたが、本書はのちに盛行を見せる尾張本草学のさきがけを成した書物といえる。翌年、妻と死別。同九年八十四歳の時、長年勤めた書物奉行としての仕事の集大成ともいうべき『馬場御文庫御蔵書目録』を完成。翌年の天明元年には、老衰のため隠居を願い出て許されている。同年、内藤東甫主催の九老尚歯会に出席。この会の様子は『張城尚歯会』にみることができる。天明三年四月十八日、八十七歳で死去。生涯を通じ、求めに応じて作った詩・序文・跋文などが大変多く、広い交遊関係がうかがえるが、とりわけ親しかった人に、吉見幸和・横井也有・太田東作・蟹養斎などがいる。また、時々各地を旅行して見聞を広めたが、その旅日記に『巡河日課』(三編まで)『吉蘇行記』などがある。ほかにも、『尾陽産物志』『楽府尋源』『博覧録要』など多くの著書があって、その博学ぶりを示している。天明三年四月十八日(一七八三)。詮栄院真義諦道居士。墓碑銘は「君山先生之墓」。碑文あり。(三百藩家臣人名事典)
墓は寺院裏のビルに囲まれた駐車場の一角に押し込まれている。同所には他に尾張藩初代松平忠吉と殉死者、松平忠吉に仕えた奥津文右衛門、国学者天野信景の墓など名古屋史上の大人物の墓がある。市の方でもう少し管理の仕方を考えてほしい。
その他の墓は天白区に改葬されているが、残存状態は非常によい。
|
松平君山墓所 |
松平君山の墓 |
ゆかりの人物リンク |
名前 |
関係 |
補足 |
墓所 |
写真 |
徳川継友 |
主君 |
江戸時代中期の大名(尾張藩)、6代 |
名古屋市東区 残骸のみ
遺骨は瀬戸市 |
|
徳川宗春 |
主君 |
江戸時代中期の大名(尾張藩)、7代藩主。『温知政要』 |
名古屋市千種区 |
|
徳川宗勝 |
主君 |
江戸時代中期の大名(尾張藩)、8代 |
名古屋市東区 残骸のみ
遺骨は瀬戸市 |
|
赤田臥牛 |
交友 |
江戸時代中期〜後期の漢学者、酒造業、学塾静修館 |
岐阜県高山市 |
|
吉見幸和 |
友人 |
江戸時代前期〜中期の神道家 |
名古屋市千種区 |
|
吉見幸混 |
門弟 |
江戸時代中期の神道家 |
名古屋市千種区 |
|
横井也有 |
友人 |
江戸時代中期の俳人、尾張藩士、「鶉衣」 |
愛知県海部郡八開村 |
|
太田東作
(宣春堂) |
友人 |
江戸時代中期の儒学者 |
名古屋市千種区 見あたらず |
|
蟹養斎 |
友人 |
江戸時代中期の尾張藩儒学者。私塾勧善堂 |
三重県伊勢市 |
|
杉山維敬 |
門人 |
江戸時代中期の本草家 |
情報求む |
|
松平艷女 |
妻 |
松平君山の妻 |
名古屋市千種区 見あたらず |
|
松平霍山 |
長男 |
江戸時代中期の儒者 |
名古屋市千種区 見あたらず |
|
松平南山 |
孫 |
江戸時代中期の儒者、書物奉行 |
名古屋市千種区 見あたらず |
|
堀忘斎 |
外祖父 |
江戸時代初期の儒学者、堀杏庵の二男 |
名古屋市東区 |
|
千村伯済(延美) |
門人 |
江戸時代中期の儒学者 |
名古屋市千種区 見あたらず |
|
内藤東甫 |
尚歯会 |
江戸時代中期の尾張藩士、尚歯会 |
名古屋市千種区 |
|
小見山順友 |
学友 |
江戸時代中期の尾張藩士・本草学者 |
名古屋市昭和区 |
|
百非道人 |
門人 |
江戸時代中期の僧侶 |
名古屋市昭和区 |
|
礁谷滄洲 |
門人 |
江戸時代中期の尾張藩儒学者 |
名古屋市千種区 見あたらず |
|
天野信景 |
先駆者 |
江戸時代前期〜中期の尾張藩士、国学者、『塩尻』 |
名古屋市千種区 |
|
岡田新川 |
門人 |
江戸時代中期の儒学者、尾張藩校明倫堂督学 |
名古屋市千種区 |
|
朝比奈君和 |
門人 |
江戸時代中期の尾張藩士、北方問題 |
名古屋市千種区 |
|
恩田尨O |
門人 |
江戸時代後期の儒学者、継述館総裁兼藩校明倫堂教授。岡田新川の弟 |
名古屋市天白区 見あたらず |
|
吉川知信 |
張州府志 |
江戸時代中期の絵師 |
名古屋市千種区 |
|
市橋新内 |
門人 |
江戸時代中期の剣術家(新関口流開祖) |
名古屋市千種区 |
|
堀田恒山 |
門人 |
江戸時代中期の俳人、松平君山高弟 |
名古屋市千種区 |
|
横井瀛洲 |
詩友 |
江戸時代中期の尾張藩儒学者 |
名古屋市千種区 妻の墓に合葬? |
|
大河内存真 |
門人 |
江戸時代中期の医家・本草学者、尾張藩奥医師 |
名古屋市千種区 |
|
宮崎睡鴎 |
師 |
江戸時代中期の柔術家、心照流を創始 |
名古屋市千種区 |
|
西川九松 |
門弟 |
江戸時代中期の儒学者 |
名古屋市中川区 |
|
藤原秀親 |
門人 |
江戸時代中期の医者、詩人 |
情報求む |
|
松平公傴 |
交友 |
江戸時代中期の武士、旗本土呂山口氏代官、文人 |
情報求む |
|
秀山 |
交友 |
江戸時代中期の僧侶。知識人 |
愛知県海部郡美和町 |
|
|
詩歌会尚歯会一覧 |
内藤東甫 |
尚歯会 |
儒学者 |
名古屋市千種区 |
|
横井也有 |
尚歯会 |
俳人 |
愛知県海部郡八開村 |
|
松平君山 |
尚歯会 |
儒学者 |
名古屋市千種区 |
|
白雲居覚融 |
尚歯会 |
僧侶 |
名古屋市千種区
名古屋市熱田区 |
|
小鹿無孔笛 |
尚歯会 |
医家 |
名古屋市千種区 見あたらず |
|
千秋斎 |
尚歯会 |
|
情報求む |
|
清水将作 |
尚歯会 |
集木軒 |
情報求む |
|
幸山 |
尚歯会 |
|
情報求む |
|
明星菴 |
尚歯会 |
|
情報求む |
|
鳥集軒 |
尚歯会 |
|
情報求む |
|
|
ゆかりの地リンク |
場所 |
住所 |
説明 |
写真 |
九老尚歯会址 |
愛知県名古屋市中区
橘1-14-37
長栄寺
|
安永10年(1781)、この寺に内藤東甫の主催により、松平君山、横井也有等80歳以上の老人9人が集まり詩歌連俳の会が開かれた。 |
|
巾下学問所址 |
愛知県名古屋市西区
那古野1丁目
|
寛延元年(1748)、闇斎学派の蟹養斎が許可を得て巾下御門外御作事屋敷内に創設された私塾。徳川宗勝により「明倫堂」の扁額を与えられるほど藩も力を入れていたが、宝暦元年(1751)立ち退きを命ぜられ養斎は離名され明倫堂と改称された。 |
|
風月堂書店址 |
愛知県名古屋市西区
那古野1丁目
|
はじめは本町1丁目(現在の中日新聞本社付近)に開店したと云われている書店。二代目孫助(長谷川夕道)は芭蕉の門人。
『本草正譌』等を風月堂から刊行している。 |
|
性高院址 |
愛知県名古屋市中区
若宮大通
|
天正17年松平忠吉が母宝台院の菩提を弔うため武蔵国忍に再興した浄土宗の寺院がその起源と伝わる。慶長8年(1603)清洲に移り、同12年松平忠吉が江戸に没し当寺に葬られ、その法号を寺名とした。義直により慶長16年名古屋に移された。昭和の初め末盛山に、ついで千種区に移転したが戦災でそのほとんどが焼失した。
江戸期、朝鮮通信使が来日の際当寺を旅館とすることが恒例となり、君山は寛延元年に当寺に宿泊中の朝鮮通信使を訪問している。
若宮神社(写真)の南に隣接してあった。 |
|
|