名前 |
朝比奈君和 |
よみ |
あさひなきみかず |
生年 |
延享四(一七四七) |
没年 |
文政一一年一二月七日(一八二八) |
場所 |
愛知県名古屋市千種区 |
分類 |
尾張藩士 |
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略歴 |
地理。延享四年尾張国において井上貞右衛門の二男として生まれた。名は甚三郎、如有子と号した。諱厚生。安永六年(一七七七)朝比奈与兵衛正明の養子となり寛政四年(一七九二)尾張藩大御番組馬廻役となり二五〇石を給された。北方問題、特に蝦夷及びロシアの南下に関心をいだき『赤夷談』『日本開国志』『夷地改革書牘年譜』及び『区内尻騒動記』などの著作があり本多利明及び林子平の思想に共鳴した。文化四年(一八〇七)の刊記のある『独座謹記』には当時ハンペンゴロウの名で知られたハンガリー人ペニョフスキーの来航について言及している。さらに、『外郎異談』(人見譏邑問・本多利明答)の校閲を行なっている。墓碑によれば特定の師はないとされるが、『歳時本拠』によれば尾張の儒者で本草家の君山松平秀雲についたことが知られるとのことである。文政一一年一二月七日死去。法名至徳院要道日悟居士。
墓碑銘は「如有子朝夷先生墓」。碑文あり。
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朝比奈君和墓所 |
朝比奈君和の墓 |
ゆかりの人物リンク |
名前 |
関係 |
補足 |
墓所 |
写真 |
松平君山 |
師 |
江戸時代中期の尾張藩士、儒者、書物奉行 |
名古屋市千種区 |
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ゆかりの地リンク
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