名前 |
内藤東甫 |
よみ |
ないとうとうほ |
生年 |
享保十三年(一七二八) |
没年 |
天明八年八月五日(一七八八) |
場所 |
愛知県名古屋市千種区 |
分類 |
尾張藩儒者 |
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略歴 |
名は正参、通称は浅右衛門、閑水又は朽庵と号し、東甫は其字なり。張城人物誌には伝馬橋東に住すと見え、金鱗九十九の壁には代官町の部に入れたり。晩年泥江に移居せしにや、泥江隠士と号せり。世々藩臣にして禄四百石を食む。大に画を好み、常に横井也有と合作す。其画風頗る狩野典信に似たり。老後風雅を旨とし、喜んで朽木を集めて左右の具となす。安永十年、尚歯会を発起し、長栄寺に初会を催す。細井平洲彼を評して「先生者善画者也、友善書、又友善歌。詩及諸体。」と云へり。又岡田新川の鬯園詩集に「東甫丈人善墨戯。匠心至処筆先至。乗閑忽寫七里杉。幽姿森々含蒼翠。梢頭又有小禽鳴。不用蓬蒿聞鼓吹。一と見えたり。天明四年、歳饑ゆ。東甫画を描きて、米穀に替へ、之を飢民に施す。其時の詞書に曰く「愚老は画を以て雑穀に替へ、飢民に是を与ふ。全く愚老は筆を取迄にして、画を望み殻を出す人の救ひなり。「為飢民以画当粟。」此七字を印中に彫りて、永く其家に伝へて、此画有家は飢民を救ひたる家也と、子孫に其事を伝るしるしとしるべし。天明四辰春、東甫。」又嘗て人見[王幾]村の嘱に依り、孝女和喜の像を画く。其数甚多し。近隣孝女の事を知るに至ると云ふ。天明八年八月五日卒す。年六十一。桂ー院東甫閑水と諡す。東甫天性悟淡、物に拘泥せず。平生の負債山の如し。甞て中元に当り、債鬼に苦められ狂歌を詠して曰く、「うかうかと心も空になりにけり外はぽんてん内はたいしやく」梵を盆に、帝釈を大借に云ひかけたるなり。(名古屋市史)
墓碑銘は「桂嵒院東圃閑水居士」
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内藤東甫墓所 |
内藤東甫の墓 |
ゆかりの人物リンク |
名前 |
関係 |
補足 |
墓所 |
写真 |
岡田新川 |
親交 |
尾張藩校明倫堂督学 |
名古屋市千種区 |
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狩野典信 |
画風 |
江戸時代中期の画家。栄川。 |
東京都大田区 |
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清水将作 |
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尚歯会、集木軒 |
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白雲居覚融 |
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江戸時代中期の僧侶 |
名古屋市千種区
名古屋市熱田区 |
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親交 |
江戸時代中期の国学者 |
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松平君山 |
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江戸時代中期の儒者、書物奉行 |
名古屋市千種区 |
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横井也有 |
尚歯会 |
江戸時代中期の俳人、尾張藩士、「鶉衣」 |
愛知県海部郡八開村 |
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尚歯会一覧 |
内藤東甫 |
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儒学者 |
名古屋市千種区 |
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横井也有 |
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俳人 |
愛知県海部郡八開村 |
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儒学者 |
名古屋市千種区 |
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僧侶 |
名古屋市千種区
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医家 |
名古屋市千種区 見あたらず |
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千秋斎 |
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明星菴 |
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鳥集軒 |
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ゆかりの地リンク |
場所 |
住所 |
説明 |
写真 |
九老尚歯会址 |
愛知県名古屋市中区
橘1-14-37
長栄寺
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安永10年(1781)、この寺に内藤東甫の主催により、松平君山、横井也有等80歳以上の老人9人が集まり詩歌連俳の会が開かれた。 |
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極楽寺 |
愛知県名古屋市中区 大須2-5-20 |
安永9年10月に極楽寺で開催された書画会「春興楽事」に作品を出品している。 |
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