名前 |
堀忘斎 |
よみ |
ほりぼうさい |
生年 |
寛永元年(一六二四) |
没年 |
元禄八年七月二十五日(一六九五) |
場所 |
愛知県名古屋市東区 |
分類 |
尾張藩儒 |
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略歴 |
父は広島藩儒で藤門の四天王の一人堀杏庵でその次男。名は貞邦、のち貞高、字は源五郎、右京、外記、勘兵衛、忘斎の他に寒扇子の号もある。京都で生まれる。父の杏庵が尾張藩主徳川義直の懇請により、尾張藩に仕えることになったため、兄の正英(立庵)が広島藩に仕えることになった。次男の忘斎は父の跡を嗣いで尾張藩に仕え、七百石の内五百石を引き継いだ。残り二百石は弟の道隣に分与された。藩主の側近にあり、貞享二年から右筆部屋の用勤めとなり、八百石まで加増された。『敬公(徳川義直)行状』の撰述や、尾張藩士の系譜集『士林泝』の編纂に関与し、元禄六年七〇歳のとき病気のため隠居し、名を勘入と改めた。七十二歳で病没。
墓碑銘は「法橋堀尾秀斎先生之墓」
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堀忘斎墓所 |
ゆかりの人物リンク |
名前 |
関係 |
補足 |
墓所 |
写真 |
徳川綱誠 |
主君 |
江戸時代初期〜中期の大名(尾張藩)、3代藩主 |
名古屋市東区 残骸のみ 遺骨は瀬戸市 大阪府柏原市 |
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徳川光友 |
主君 |
江戸時代初期の大名(尾張藩)、2代藩主 |
名古屋市東区(国重文) 大阪府柏原市 |
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徳川義直 |
主君 |
江戸時代初期の大名(尾張藩)、初代藩主、将軍家康の九男 |
愛知県瀬戸市 |
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堀杏庵 |
父 |
江戸時代初期の広島藩儒、藤門の四天王、「寛永諸家系図伝」 |
京都市左京区 東京都港区 |
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堀道隣 |
弟 |
江戸時代初期の尾張藩儒家、堀杏庵の三男 |
東京都港区 |
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堀立庵 |
兄 |
江戸時代初期の広島藩儒家、堀杏庵の長男 |
京都市左京区 |
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松平君山 |
孫 |
江戸時代中期の尾張藩士、儒者、書物奉行 |
名古屋市千種区 |
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