名前 |
天野信景 |
よみ |
あまのさだかげ |
生年 |
寛文元年九月二十五日(一六六一) |
没年 |
享保十八年九月八日(一七三三) |
場所 |
愛知県名古屋市千種区 |
分類 |
尾張藩士・国学者 |
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略歴 |
尾張藩士。藩主徳川光友・綱誠・吉通・五郎太・継友に仕える。字は子顕、残翁・白華・問津亭などの号がある。通称は権三郎、のち源蔵と称し、治部と改めた。鎌倉時代の武将天野藤内遠景の裔。祖父孝信以来尾張藩に仕え、父信幸は孝信の次子で金奉行、町奉行を歴任、四百五十石を移った。信景は貞享元年に家を継いで寄合に列し、正徳五年七月鉄砲頭となって在職九年、享保八年四月に辞して寄合となり、同十五年退隠、剃髪して信阿弥陀仏と号した。この間に元禄十一年、藩が『尾張風土記』の撰述事業を起こすと、信景は藩命によって吉見幸和、真野時綱らとともにその任に当たった。これは、翌年の藩主綱誠の死により中止されたが、のちに松平君山に引き継がれ、宝暦二年に『張州府志』として結実した。その人となりは温厚和平にして、博聞強記。特定の師は持たなかったが、朱子学を基本にして歴史・文学・神道・有職故実など国学全般を修め、さらに広く仏教・博物・天文・地理・風俗などにも通じ、閑職を利して著述に専念した。特に『塩尻』は坐右消閑の随筆として、最も広く知られている。享保十八年九月八日没。享年七十三歳。迎接院実蓮社願誉一空信阿弥陀仏と法諡した。著書はすこぶる多く、『国書総目録』に収載されている書目は『熱田寛平記頭註』をはじめ、『熱田享禄図考』『熱田神社問答雑録』『熱田神体記』『熱田本社末社神体尊命記集説』『天野信景備忘随筆』『天野氏集書』『あやめ草』『伊勢参道里程抄』『伊勢大神宮参詣記』『犬追物検見考』『淫祀辨』『浦の名残』『運甓随筆』『燕居偶筆』『大中臣祓祝詞本義』『尾張国志』『尾張五社略記』『尾張古城志』『尾張古城録』『尾張祠考』『尾張十五寺略記』『尾張十大寺記略』『尾張国人物志略』『尾張国神名帳集説』『海道俚語』『学庸開題』『春日社記』『家紋記』『我聞如是』『義解念仏抄』『机上一覧』『旧記残編』『凝寂堂雑記』『熊野考異』『呉竹集』『訓意秘訣』『源氏桐壷大概』『孔子諡封辨』『考槃静記』『古今集序註』『古今易辨』『牛頭天王辯』『孤燈掲尽』『今昔著聞集』『祭儀抄』『信景拾葉録』『信景随筆』『雑抄』『参考尾張本国帳』『参考本国神名帳集説』『三種神器三才配当之図』『三年無改辨』『塩尻』『塩尻記』『塩尻拾遺』『塩尻類書』『塩原雑記』『事言籍』『師檀名辨』『忍のすさび』『穐南閑筆』『周易蓍木図解』『朱易衍義補』『朱子諡封辨』『儒者名義辨』『貞享御即位聞書』『姓氏考』『尚島記事』等々の百四十五種に汲んでいる。燃えつづくほのほのひまを住家にてやすからぬ身と知るやしらずや(江戸の火災による荒廃を詠んで。「塩尻拾遺」)。(三百藩家臣人名事典)
墓碑銘は「信阿弥陀仏」。
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天野信景墓所 |
天野信景の墓 |
ゆかりの人物リンク |
名前 |
関係 |
補足 |
墓所 |
写真 |
河村秀穎 |
門人 |
尾張藩士・国学者 |
名古屋市天白区 |
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徳川綱誠 |
主君 |
江戸時代初期〜中期の大名(尾張藩)、3代藩主 |
名古屋市東区 残骸のみ
遺骨は瀬戸市
大阪府柏原市 |
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徳川五郎太 |
主君 |
江戸時代中期の大名(尾張藩)、5代 |
名古屋市東区 残骸のみ
遺骨は瀬戸市 |
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徳川継友 |
主君 |
江戸時代中期の大名(尾張藩)、6代 |
名古屋市東区 残骸のみ
遺骨は瀬戸市 |
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徳川光友 |
主君 |
江戸時代初期の大名(尾張藩)、2代藩主 |
名古屋市東区(国重文)
大阪府柏原市 |
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徳川吉通 |
主君 |
江戸時代前期〜中期の大名(尾張藩)、4代 |
名古屋市東区 残骸のみ
遺骨は瀬戸市 |
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堀田恒山 |
門人 |
江戸時代中期の俳人、松平君山高弟 |
名古屋市千種区 |
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真清田清円 |
交友 |
江戸時代中期の神職(一宮市:真清田神社)、郷土誌研究 |
愛知県一宮市 |
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山本格安 |
門人 |
江戸時代中期の国学者 |
情報求む |
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吉見幸和 |
友人 |
江戸時代前期〜中期の神道家 |
名古屋市千種区 |
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ゆかりの地リンク |
場所 |
住所 |
説明 |
写真 |
生誕地 |
愛知県名古屋市
中区栄3丁目
(南大津町)
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尾張藩士の子として尾張城下南大津町に生まれています。特に史跡説明板はありません。
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