名前 |
吉見幸和 |
よみ |
よしみゆきかず |
生年 |
延宝元年九月十五日(一六七三)
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没年 |
宝暦十一年四月二十六日(一七六一) |
場所 |
愛知県名古屋市千種区 |
分類 |
尾張藩儒者・神道家 |
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略歴 |
江戸中期の神道家。尾張国(愛知県)名古屋の人。名古屋東照宮の祠官吉見恒幸の子。通称は定之助、勝弥,定右衛門、左京大夫。号は恭軒、風水翁,嚢玄子、竜洞亭。名古屋東照宮の祠官に任じられたのは幸和の祖父国崎直勝の代からで,直勝は吉見幸勝と名を改め,その子恒幸の3男として幸和は生まれる。元禄7(1694)年長兄が病気のため家督を辞し,次兄は夭折だったため,幸和が後嗣となる。はじめ家学を修め,のち浅見絅斎に崎門学を,正親町公通,玉木正英に垂加神道を学ぶ。伊勢神道の中心的文献である『神道五部書』を偽書とする『五部書説弁』(大神宮叢書所収)を著したのは元文1(1736)年,64歳のときであった。同4年には『増益弁卜抄俗解』を著し,吉田神道を批判する。寛保2(1742)年,『五部書説弁』を伊勢神宮に奉納したのちの晩年は,神道全体の根拠であると考えた『日本書紀』の研究に集中し『神代正義』『神代尚[糸同]』を完成させた。宝暦十一年四月二十六日(一七六一)没。八十九歳。(三百藩家臣人名事典)
墓碑銘は「正四位下行左京大夫源朝臣事和之墓」。碑文あり。
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吉見幸和墓所 |
吉見幸和の墓 |
ゆかりの人物リンク |
名前 |
関係 |
補足 |
墓所 |
写真 |
浅見絅斎 |
師 |
江戸時代前期〜中期の儒者、崎門三傑、赤穂義士を賛美 |
京都市東山区 |
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磯野渙斎 |
門下 |
江戸時代中期の尾張藩士、儒学者 |
名古屋市天白区 見あたらず |
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正親町公通 |
師 |
江戸時代前期〜中期の公卿、神道家(正親町流神道) |
京都市左京区 |
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河村秀穎 |
門下 |
江戸時代中期の尾張藩士・国学者 |
名古屋市天白区 |
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河村秀世 |
門下 |
江戸時代中期の尾張藩士・国学者 |
名古屋市天白区 |
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小出 斎 |
師 |
江戸時代前期〜中期の儒者 |
名古屋市千種区 |
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須賀精斎 |
門下 |
江戸時代中期の儒者 |
名古屋市千種区 |
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須賀亮斎 |
門下 |
江戸時代中期の儒者 |
名古屋市千種区 |
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玉木正英 |
師 |
江戸時代中期の神道家、橘家神道を大成 |
京都市左京区 |
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近松茂矩 |
門下 |
江戸時代中期の尾張藩士、兵学者(一全流) |
名古屋市千種区 |
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速水鼎斎 |
門下 |
江戸時代中期の儒者 |
名古屋市千種区 |
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松岡仲良 |
門下 |
江戸中期の神道家 |
京都市左京区 |
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松平君山 |
親交 |
江戸時代中期の尾張藩士、儒者、書物奉行 |
名古屋市千種区 |
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吉見幸混 |
次男 |
江戸時代中期の神道家 |
名古屋市千種区 |
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度会延経 |
師 |
江戸時代前期〜中期の神職 |
三重県伊勢市 |
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ゆかりの地リンク |
場所 |
住所 |
説明 |
写真 |
東照宮 |
愛知県名古屋市
中区丸の内2-3
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尾張藩祖義直が、元和5年(1619)南光坊天海を請じて創建した。父家康の霊を祭る。当初は名古屋城三の丸にあったが、明治8年(1875)、明倫堂跡に遷座した。明治31年に徳川慶勝の霊も合祀。かつて毎年4月17日に例祭が盛大に行なわれ、この祭に曳き出した、九両の山車は名古屋の誇りと言われたが現存しない。 |
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