人物総覧 か  尾張藩 国学者

名前 河村秀世
よみ かわむらひでよ
生年 元禄八年四月一日(一六九五)
没年 明和八年八月五日(一七七一)
場所 名古屋市天白区
分類 尾張藩士・国学者
略歴

 六代藩主徳川継友・七代宗春・八代宗勝に仕える。国学者河村秀穎・秀根兄弟の父。祖先は代々相模国河村郷に住み、曾祖父秀久の時、駿府で尾張藩初代徳川義直に召し抱えられた、いわゆる駿河新参衆に分類される家である。秀世の父長秀は嫡男とは別に八百石を給与されて分家を興し、国用人を勤めた。秀世は長秀の二男で、土屋庄左衛門女由佐(父長秀の後妻)を母として生まれた。初名長益、秀竜、幼名庄九郎、金之助、久米之進、のち代右衛門、九郎右衛門、通称藤太夫。兄夭折のため正徳四年父の隠居とともに家督を継いだが、禄高は六百石。歩行頭、五十人頭などに任ぜられたが、元文四年宗春が隠居謹慎を命ぜられた時、その近臣であったため役を罷免され、馬廻組に編入されて百石を減俸された。廷享二年馬廻小頭、次いで先手足軽頭ののち、蓮胎院(宗春の養女近姫、上杉宗房に嫁す)の傅役となったが、その病没とともに昔請組寄合(非役)に編入され隠居、二十年後七十七歳で死去。もの静かで温厚、寡欲、武士としてはさして栄進を見ることなく終わったが、篤実に勤務を果たし、閑暇と永い隠居生活とを学問、漢詩、和歌、書などに親しんで過ごした。長男秀穎・二男秀根が吉見幸和の門に入った時は、子らとともに入門している。「紀典学」を生み出した河村一族の好学の家風は、秀世によって作られたといってよい。明和八年八月五日(一七七一)。七十七歳。慶善院聖誉慈雲居士。(三百藩家臣人名事典そのまま(すんません・・・))
 墓碑銘は「河村秀世之墓」。墓側面に碑文あり。

河村秀世の墓

河村家の墓

ゆかりの人物リンク
名前 関係 補足 墓所 写真
徳川継友 主君 江戸時代中期の大名(尾張藩)、6代 名古屋市東区 残骸のみ
遺骨は瀬戸市
徳川宗春 主君 江戸時代中期の大名(尾張藩)、7代藩主。『温知政要』 名古屋市千種区
徳川宗勝 主君 江戸時代中期の大名(尾張藩)、8代 名古屋市東区 残骸のみ
遺骨は瀬戸市
蓮胎院 傅役 出羽米沢藩上杉家七代藩主、上杉宗房正室 たぶん米沢市
河村長秀 江戸時代初期〜中期の尾張藩士・国学者 名古屋市千種区
河村秀穎 長男 江戸時代中期の尾張藩士・国学者 名古屋市千種区
河村秀根 次男 江戸時代中期の尾張藩士・国学者 名古屋市千種区
河村秀俊 江戸時代中期の尾張藩士・国学者 名古屋市千種区
河村殷根 江戸時代中期の尾張藩士・国学者 名古屋市千種区
河村乾堂 江戸時代後期の国学者、儒者、河村秀根の次男 名古屋市千種区


ゆかりの地リンク
場所 住所 説明 写真
旧宅跡 愛知県名古屋市
 東区白壁4
 文会書庫跡の看板がある付近が河村家の屋敷跡にあたる。