人物総覧 か  尾張藩 国学者

名前 河村秀根
よみ かわむらひでね
生年 享保八年十月十二日(一七二三)
没年 寛政四年六月二十六日(一七九二)
場所 名古屋市千種区
分類 尾張藩士・国学者
略歴

 七代藩主徳川宗春に仕える。河村秀世の二男。母は五歳年長の兄秀穎と同じく鈴木安太夫重弘女久。幼名金之助、復太郎、字は君律、葎庵と号す。温厚好学の父と厳格な賢母とに育てられ、兄とともに若年から学問に親しむ。十一歳で藩主宗春の嫡子国丸の小姓として召し出され、江戸に勤務、切米五十石五人扶持を給与される。三年後、国丸の早世により、宗春の表側小姓となる。宗春に重用され、元服の時は宗春が鋏をとって前髪を落としたという。元文四年、宗春が隠居謹慎を命ぜられ名古屋に帰った時、ともに帰国、非役となる。閑暇を幸い、学問に専念。すでに学びはじめていた卜部神道に疑問を抱き、有職故実家多田義俊に師事、さらに二十二歳の時、神道家吉見幸和(名古屋東照宮の神官)の門に入る。それは中世的秘伝主義権威主義にあき足らぬ、秀根の近世的合理主義的精神が、その満足を求めてのことであった。多田義俊によって、契沖に始まる近世的古典研究の学風に眼を開かれた秀根は、さらに国史官牒すなわち確実な資料に基づいて古典を研究することを主張する幸和によって、研究の基本的方法を学んだのである。幸和入門後の秀根は国史研究に没頭し、短期間のうちに『日本書紀撰者考』『撰類聚国史考』『日本書紀撰者弁』を著して日本書紀や類聚国史の撰者を考察し、さらに『神学弁』『首書神祗令集解』などを書き上げた。兄秀頴もともに幸和に入門しており、これらはいずれも兄との共著もしくはそれに近いものである。兄弟はさらに日本書紀の註釈を志したが、宝暦元年兄が父の家督を継ぎ、次いで翌年秀根が隠居中の宗春の奥番を命ぜられるに及んで、研究は中断、秀根はその後宗春薨去までの十数年間を宗春の忠実な側近として過すのである。明和二年四十三歳で研究を再開した秀根は、『日本書紀集解』の執筆を始めたが、十一年間で巻十五まで書き進んで中断、二男益根の協力を得て、改めて『書紀集解』の筆を起こす。これは事実上親子の合作で、未完成のうちに秀根は死去、益根が完成させるのであるが、厳密な考証に基づく、秀根らの古典研究の代表作であった。秀根には殷根、益根の二子があり、いずれも篤学の人であったが、殷根は二十歳で病没、二男益根が父の学問を助け、これをさらに発展させたのであった。こうして形成された河村一門の学間を「紀典学」と称したが、その内容は国史、神道、古典の研究であり、のちにいう国学に他ならなかった。それは藩祖義直に始まり、吉見幸和によって方向づけられた尾張国学の開花であった。秀根は安永六年五十五歳の時、京都に通じて謀叛を企てたとの無実の罪で訴えられ、投獄されるという不運に見舞われたが、程なく疑いは晴れた。研究の多くを益根に委ねつつ、自らは憧れの京への旅を果たすなどして晩年を過ごし、七十歳で没した。著述には前述のほか、『日本書聚財』『延喜式祥瑞式築伝』(改稿して『廷喜式祥瑞式考証』)、『書紀類註』『狭衣入紐』『葎庵歌叢』『百首十ヶ度』『初子記』『雑識』などがある。葎庵秀根居士。(三百藩家臣人名事典)
 墓碑銘は「河村葎庵居士碑」


河村家墓所
 
河村秀根の墓

ゆかりの人物リンク
名前 関係 補足 墓所 写真
徳川宗春 主君 江戸時代中期の大名(尾張藩)、7代藩主。『温知政要』 名古屋市千種区
朝倉景員 親交 江戸時代中期の尾張藩士、国学者 名古屋市千種区 見あたらず
石原正明 親交 江戸時代後期の国学者 愛知県津島市
稲葉通邦 交友 江戸時代中期〜後期の尾張藩士、有職家 名古屋市昭和区 現存せず
太田巴静 江戸時代中期の俳人 名古屋市天白区
河村長秀 祖父 江戸時代初期〜中期の尾張藩士・国学者 名古屋市天白区
河村秀世 江戸時代中期の尾張藩士・国学者 名古屋市天白区
河村秀穎 江戸時代中期の尾張藩士・国学者 名古屋市天白区
河村殷根 長男 江戸時代中期の尾張藩士・国学者 名古屋市千種区
河村乾堂(益根) 次男 江戸時代後期の国学者、儒者、河村秀根の次男 名古屋市千種区
伊藤玄沢 交友 江戸時代中期の医師 名古屋市千種区
神村正鄰 交友 江戸時代中期の国学者、尾張藩士 名古屋市千種区
多田義俊 有職故実家 情報求む
松永国華 門下 江戸時代中期の儒学者・松永久秀子孫 名古屋市千種区
吉見幸和 江戸時代前期〜中期の神道家 名古屋市千種区


ゆかりの地リンク
場所 住所 説明 写真
文会書庫跡 愛知県名古屋市
 東区白壁4
 安永2年河村秀穎によって創立された。
 秀穎の父、秀世から秀穎の子、秀俊の三代に渡って収集され、2万冊を超える蔵書があった。
 秀穎はその蔵書を希望する者に惜しみなく貸し与えた。