人物総覧 い
 尾張藩 医者

名前 伊藤玄沢
よみ いとうげんたく
生年 宝永七年 (一七一〇)
没年 安永八年七月二十一日(一七七九)
場所 愛知県名古屋市千種区
分類 医者
略歴

 名は茂臣、字は子良、心斎と号し。其居を再生堂といふ。父道清、美濃高須に在りて医を業とす。玄沢初め祐専と称し、享保九年十一月名古屋に出でて、医を兒玉玄に学ぶ。時に年十五なり。玄の家に在ること十年、業成りて居を、伏見町四丁目に卜し、改めて玄沢と称し、門戸を開く。人と為り敦厚、母館氏に事へて、善く孝養を盡くす。而して自ら奉ずること極めて薄し。又親戚朋友の急に遇へば、之を賑はして毫も徳とする色なし。其人を療するに至りては、丁寧深切、病劇しきときは、枕に坐して之を守り、盡日徹宵懈倦あるなし、貧家請する者あれぱ、風雨を避けず、曉夜を問はず必ず親ら往き、其衣食に窘むを視れば、必先づ之を予へ、而して後貴薬賓剤、症に従ひて投ず。治を乞ふ者日に益々多くして、然も竟に医薬の報を問はず。依りて人称して再生堂といふ。貧民、行旅の病者皆来りて療を求む、延享三年玄沢又仮阪の民の医に頼ること能はざるを憫み、丸散薬を製して弘く之を施す。宝暦五年十二月藩主宗勝聞きて其行を美とし、歳毎に黄金三十両を給ひて薬資を助け、永く施薬を行ふことを命ず。是に於て吉沢施薬の二字を大署し、河村秀根に嘱して文を作らしめ之を門頭に掲げて似て病者を待つ。玄沢益々旅薬に務め、遼遠の者も亦之を聞きて至り、由りて以て生を全うするもの歳毎に千を以て数ふ。翌年用掛の命あり、八年謁を賜ふ。安永七年十二月其多年の功を賞して俸五口を賜ふ。玄沢、中西淡淵と相善し、淡淵嘗て細井平洲に告げて曰く、敦厚なること吉沢の如きは得易からずと。又吉沢に謂ひて曰く、願はくば善く我が紀生を視よ。吾れ唯其疾を之れ憂ふと。此より平洲、玄沢に親頼して、後常に書問を絶たず、安永八年七月二十一日没す、享年七十。子孫相継ぎて施薬を行ふ。弟一元、字は吉甫、冠峰と号す、淡淵に学びて儒を以て名あり、晩に美濃笠松に住す。二子長は春沢、名は茂樹、字は千徳、采真と号す。家を継ぎて亦玄沢と称す。享和二年二月十八日没す、享年六十一、次は墨海、伝書家部にあり。楽山院浄書清弘。(名古屋市史)
 墓碑銘は「心斎先生之墓」。碑文あり。

伊藤玄沢墓所

伊藤玄沢の墓
  
ゆかりの人物リンク
名前 関係 補足 墓所 写真
河村秀根 交友 江戸時代中期の尾張藩士・国学者 名古屋市千種区
中西淡淵 交友 江戸時代中期の儒者、尾張藩付家老竹腰氏家臣 東京都港区
細井平洲 交友 江戸時代中期〜後期の儒者、藩校明倫堂総裁 東京都台東区

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