名前 |
神村正鄰 |
よみ |
かみむらせいりん |
生年 |
享保十三年(一七二八) |
没年 |
明和八年五月十一日(一七七一) |
場所 |
愛知県名古屋市千種区 |
分類 |
尾張藩士・国学者 |
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略歴 |
尾張藩士。藩主徳川宗勝・宗陸に仕える。初名は胤年、胤相ともいう。字は子有、三筍亭・恭敬斎と号した。通称は源助、初め大学と称す。美濃岐阜の人。父は永建、母は大野木氏。人となりは謹厚にして明敏、孝友深く、謙遜みずから養って足らざるもののようであった。人に接するに清濁容れざるなく、外は温和であるが、内に儼たる気象があった。孜々として学に勤めてうまず、かつて京都に在って高橋宗直(御厨子所従四位上若狭守)に従って有職を学び、白川流の神道を吉田氏に受けてその学頭代となったが、およそ南史律令より鷹の書にいたるまで窮めざるところがなかった。宝暦五年十一月、藩主宗勝が召して内筆役として十口俸を給した。これより先に逸令を刻する者があったが、正鄰は当時の全文にあらずとして明和七年に『関市令考』を作り、その真偽を弁じた。本書を藩に献上したところ、有司がこれを見て世に益するところ多きを褒め、その功を賞して月毎に金一両を給し加扶持に代えた。正鄰は資稟多病。明和七年六月晦日、暑に傷み病に臥して起きることができず、十二月に藩主宗睦の長子松平治休から銀と人参代を賜った。翌八年五月十一日に没し、禅隆寺に葬る。享年四十四歳。著書に『禅村随筆』『関市令考』『己卯雑識』『禁秘抄下巻押紙』『禁秘抄集解』『禁秘抄中巻考』『禁秘御抄考証』『講令備考』『神祗伯家祭祀儀式集』『神代紀下続秘解』『神代紀上秘解余言』『読式撮要』がある。ただし『禁秘抄集解』は稿成らずに没し、門人の稲葉通邦、山高信順らにいたって完成した。正鄰には嗣子がなく、家系まさに断絶せんとしたが、河村秀穎、深田正益らが正鄰の神道および有職学の廃絶、遺書の散佚を憂えて藩に請い、当時浪人であった門人鈴木忠貞に名跡を継がせた。天性院淳芳本隨居士。(三百藩家臣人名事典)
墓碑銘は「神村正鄰之墓」。碑文あり。
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神村正鄰の墓 |
ゆかりの人物リンク |
名前 |
関係 |
補足 |
墓所 |
写真 |
朝倉景員 |
親交 |
江戸時代中期の尾張藩士、国学者 |
名古屋市千種区 見あたらず |
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石原正明 |
親交 |
江戸時代後期の国学者、和学講談所の塾頭 |
愛知県津島市 |
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稲葉通邦 |
門下 |
江戸時代中期〜後期の尾張藩士、有職家 |
名古屋市昭和区 現存せず |
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神村忠貞 |
養子 |
江戸時代中期の国学者。正鄰の養子 |
愛知県刈谷市 |
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河村秀穎 |
親交 |
江戸時代中期の尾張藩士・国学者 |
名古屋市天白区 |
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河村秀根 |
交友 |
江戸時代中期の尾張藩士・国学者 |
名古屋市千種区 |
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高橋宗直 |
師 |
江戸時代中期の公家、有職故実家 |
京都市左京区?
詳細情報求む |
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徳川宗睦 |
主君 |
江戸時代中期の大名(尾張藩)、9代藩主。藩校明倫堂を創設 |
愛知県小牧市 |
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徳川宗勝 |
主君 |
江戸時代中期の大名(尾張藩)、8代 |
名古屋市東区 残骸のみ
遺骨は瀬戸市 |
_zangai_s.jpg) |
深田九皐 |
親交 |
江戸時代中期〜後期の尾張藩士、儒者、慎斎の第二子 |
名古屋市天白区 |
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山高信順 |
門下 |
江戸時代中期の尾張藩士、有職家・国学者 |
名古屋市千種区 |
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