人物総覧 や 尾張藩 伝統武術 儒学者・国学者 制剛流

名前 山高信順
よみ やまだかのぶのり
生年 享保二十年(一七三六)
没年 文化十年二月二十六日(一八一三)
場所 愛知県名古屋市千種区
分類 尾張藩士・柔術家・有職家・国学者
略歴

 名は信順、字は子祐、翠竹軒と号す。幼名は鍋吉、後孫八と称し、又澤右衛門と改む。致仕の後、更に末路布と称す。祖父信政、父信就共に尾張侯に仕へ、北條流の軍法を藩の子弟に教授す。信順亦之を伝へ、安永元年禄百五十石を襲ひて、成瀬隼人正の同心に属し、後寄合組に転ず。信順、神影流の兵法を大塩芳高に学び、大草流の鎌術を大原為治に学び、並に共許可を得、兼て制剛流の柔術を善くし、之を以て藩の子弟に教授す。信順、又神村正鄰に従ひて皇朝の典章を学修し、従弟稲葉通邦と共に常に之を究明す。天明三年書物方書寫の事を命ぜられ、事に従ふこと十一年、寛政三年、神祗宝典、類聚日本紀校合の事に与る、其間労を以て銀を賜ふこと二回に及ぶ。正鄰、曾て禁秘抄集解を作り、未だ稿を脱するに至らすして没す。其病篤き時之を信順に嘱し、通邦と共に事に従はしむ。因りて拮据之に務め、遂に大成して師の命を全うす。信順、人と為り温雅にして、容貌儒人の如し。常に好みて書を読み、老に至りて倦まず、就て有職故実を問ふ者亦尠からず。文化十年二月二十六日没す、享年七十八。翠竹軒節厳順芳居士と法諡す。
 墓碑銘は「山高信順墓」。碑文有。

山高信順の墓

ゆかりの人物リンク
名前 関係 補足 墓所 写真
稲葉通邦 従弟 有職家・国学者。
古文献や古武具を調査・研究。
名古屋市昭和区 現存せず
大塩芳高 兵法家(神影流) 情報求む
大原為治 鎌術(大草流) 情報求む
神村正鄰 江戸時代中期の国学者、尾張藩士 名古屋市千種区
首藤允中 次男 江戸時代後期の尾張藩士、好学者 名古屋市千種区