人物総覧 か  尾張藩 国学者

名前 河村秀穎
よみ かわむらひでかい
生年 享保三年閏十月四日(一七一八)
没年 天明三年六月十六日(一七八三)
場所 名古屋市天白区
分類 尾張藩士・国学者
略歴

 八代藩主徳川宗勝・九代宗睦に仕えた。河村秀根の兄。河村秀世の長男。母は鈴木安太夫重弘の女久。初名秀興、幼名久米之進。字は君栗、通称七郎。宝暦元年三十四歳で家督、禄高五百石を継ぐ。先手物頭、目付、黒門頭を経て町奉行となり、さらに宗勝女恭(九条道前の室)のよう臣となって京都に赴くが、病を得て帰郷。その後、小納戸、書物奉行を歴任。学問好きで蔵書家であった父の影響で学を好み、五歳下の弟秀根とともに卜部神道を学び、冷泉為村に和歌を、多田義俊に有職故実、神道、国史を、さらに吉見幸和(名古屋東照宮の神官)に神道、国史を学んだ。弟秀根とともに古典研究に手をそめ、『日本書紀撰者弁』『首書神祗令集解』『神学弁』『古事記開選』等をともに著した。律令の研究にも進み、神村正鄰、稲葉通邦、深田正益らの友人や弟秀根との共同研究『講令備考』にも参加している。また藩命によって『歴代徒刑考』を撰したといわれ、『通俗徒刑解』と題する著書も残されている。これは中国および日本の徒刑の歴史を述べたあと、追放刑など当代の刑罰制度を論じたものであり、秀穎の町奉行としての関心とその好学との産物であろう。秀穎は追放刑を「和漢とも古来なき仕置」で、「無宿の人の出来るは其治道に害あり」と批判している。また藩が敬老のため領内の高齢者に祝いの金品を贈った時、書物奉行であった秀穎は、受贈者の名簿「天明老々記」を書き残している。このほか法華経に帰依し、「十如是独言」で仏教に関する見解を述べ、また父の蔵書数千冊を基に、自ら蒐集した書物を加えた数万巻を「文会書庫」に収め、惜しむところなく人に借覧せしめた。このように幅広い学識と関心をもち、いくつかの研究にも手をそめたが、武士として公務においても活躍しており、学者としては自ら大成するというよりは弟秀根の授助者、よき理解者、共同研究者に終始したといえよう。人となりは「質朴守正」と伝えられる。天明三年六月十六日、六十六歳で没した時、残された秀根はその淋しさを歌に詠んで、片枝のみ残された老木に自らをたとえた。第三子秀俊も学問に優れたが若くして世を去った。秋水軒徳誉涼風居士。(三百藩家臣人名事典)
 墓碑銘は「河村秀嘉之墓」。碑文あり。父秀世も同所に改葬されている。

河村秀穎の墓

河村家の墓

ゆかりの人物リンク
名前 関係 補足 墓所 写真
徳川宗勝 主君 江戸時代中期の大名(尾張藩)、8代 名古屋市東区 残骸のみ
遺骨は瀬戸市
徳川宗睦 主君 江戸時代中期の大名(尾張藩)、9代藩主。藩校明倫堂を創設 愛知県小牧市
天野信景 江戸時代前期〜中期の尾張藩士、国学者、『塩尻』 名古屋市千種区
朝倉景員 親交 江戸時代中期の尾張藩士、国学者 名古屋市千種区 見あたらず
河村長秀 祖父 江戸時代初期〜中期の尾張藩士・国学者 名古屋市千種区
河村秀世 江戸時代中期の尾張藩士・国学者 名古屋市千種区
河村秀根 江戸時代中期の尾張藩士・国学者 名古屋市千種区
河村秀俊 三男 江戸時代中期の尾張藩士・国学者 名古屋市千種区
冷泉為村 江戸時代中期の公卿・歌人。正二位権大納言兼民部卿 京都市左京区
多田義俊 有職故実家 情報求む
吉見幸和 江戸時代前期〜中期の神道家 名古屋市千種区
神村正鄰 親交 江戸時代中期の国学者、尾張藩士 名古屋市千種区
稲葉通邦 親交 江戸時代中期〜後期の尾張藩士、有職家 名古屋市昭和区 現存せず
深田九皐
(正益)
親交 江戸時代中期〜後期の尾張藩士、儒者、慎斎の第二子 名古屋市天白区


ゆかりの地リンク
場所 住所 説明 写真
文会書庫跡 愛知県名古屋市
 東区白壁4
 安永2年河村秀穎によって創立された。秀穎の父、秀世から秀穎の子、秀俊の三代に渡って収集され、2万冊を超える蔵書があった。
 秀穎はその蔵書を希望する者に惜しみなく貸し与えた。