名前 |
須賀精斎 |
よみ |
すがせいさい |
生年 |
元禄二年(一六八九) |
没年 |
宝暦五年十月二十日(一七五五) |
場所 |
愛知県名古屋市千種区 |
分類 |
尾張藩儒学者 |
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略歴 |
同藩家臣山澄淡路守の同心を勤めた須賀安平(理右衛門)の二男として生まれた。名ははじめ安長、安致、のちに誼安と改めた。通称は吉平次、精斎・麓沢窩と号した。兄の親安(理右衛門)は、父の家領を継いで石川伊織・渡辺新左衛門・熊谷与兵衛の同心を勤めたのち、正徳二年に書物奉行に任ぜられている。精斎は幼い頃から父に就いて学び、長じてからは小出斎に師事し、斎をして「我が門に汝を得たるは是れ天の我に福するなり」と言わしめたほどの器量をみせた。のちに吉見幸和にも学んで、ますます同門の人々の尊敬を集め、学者との交流も広がった。若い頃は仕官を望まず、私塾の一教育者として門弟の教育に努めた。寛保四年二月八日、その業績を認められ、布施東溟(のちの蟹養斎)とともに藩から五人扶持を給され、より子弟の教育に励むことを命ぜられた。続く延享年間には八代藩主宗勝の侍講となり、江戸と尾張を往来して公務と門弟の教育に努めた。『論語』を講ずる時は、必ず礼服をつけたというエピソードが伝えられ、謹厳な性格がしのばれる。著書に『始学猫眼』『主一箴解』『栄子策問』『昭穆図解』があるが、寛延二年の成立と思われる『始学猫眼』は初学者のための啓蒙的な著述で、私塾の師として生きることを誇りとしていた様子がうかがえる。門下からは津金胤臣・堀尾春芳らが出た。宝酉五年十月二十日、六十七歳で病没。須賀精斎居士。(三百藩家臣人名事典)
墓碑銘は「須賀精斎先生之墓」。碑文あり。
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須賀精斎墓所 |
須賀精斎の墓 |
ゆかりの人物リンク |
名前 |
関係 |
補足 |
墓所 |
写真 |
小出 斎 |
師 |
江戸時代前期-中期の儒者 |
名古屋市千種区 |
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須賀亮斎 |
長男 |
江戸時代中期の儒者 |
名古屋市千種区 |
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鈴木伍草 |
門人 |
江戸時代中期の尾張藩士 |
名古屋市千種区 見あたらず |
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津金胤臣 |
門人 |
江戸時代中期の尾張藩士
熱田開拓、瀬戸の窯を発展 |
名古屋市千種区 |
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徳川宗勝 |
主君 |
江戸時代中期の大名(尾張藩)、8代 |
名古屋市東区 残骸のみ
遺骨は瀬戸市 |
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速水鼎斎 |
門人 |
江戸時代中期の儒者 |
名古屋市千種区 |
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吉見幸和 |
師 |
江戸時代前期〜中期の神道家 |
名古屋市千種区 |
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堀尾秀斎 |
門人 |
江戸時代中期の国学者 |
名古屋市天白区 |
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