名前 |
津金胤臣 |
よみ |
つがねたねおみ |
生年 |
享保十二年(一七二七) |
没年 |
享和一年十二月十九日(一八〇一) |
場所 |
愛知県名古屋市千種区 |
分類 |
尾張藩士 |
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略歴 |
字は子隣。通称はじめ薪之丞、のち文左衛門、黙斎と号した。先祖胤久は徳川家康に仕えたが、慶長八年、藩祖徳川義直に付属した。胤臣は、藩士文左衛門胤忠の長子として名古屋に誕生。寛保二年家督を相続し、禄二百五十石を受け、馬廻。九代藩主宗睦世子治休小姓、金方納戸役、勘定奉行、先手物頭等を経て、明和三年熱田奉行に就任、船奉行を兼ねる。寛政初年、領分の十四歳から六十歳までの婦女子に綿布役を課し、凶荒、火災病難時の窮民の救済にあてるよう建議。同四年藩札の再発行に際し、それが正金の融通を阻害し、物価の高騰を招くと反対、経世家としての非凡な才識を示す。同十二年熱田海浜の開拓に着手、翌享和元年田畑三百四十九町歩を得た。熱田前新田がそれである。領内に新田の耕作民を募ったところ、希望者のなかに陶業地尾張国瀬戸村の加藤吉左衛門と子民吉のいることを知った。当時瀬戸では窯数を制限し、長子だけが陶業を継ぎ、他は転業させる定めであった。胤臣は吉左衛門から農業に従事するにいたった経緯を聞き、その技術の絶えるのを惜しんだ。自身習得した中国南京焼の技法を授け、資金をあたえて研究させた。窯を熱田前新田古堤に築き、陶土を同国知多郡から取り寄せて、新製染付焼の生産に成功。やがて瀬戸業者の願いによって、窯をその地に移し、窯業発展の基礎を固めた。七十五歳で没。逝去直後、屋敷門前に「津金大明神」と書し香料を供える者もいた。新田開発による藩庫窮迫の責めを負い、自殺したとの風説もある。名古屋大光院に葬り、鉄心道肝という。幼少より学を好み、須賀精斎に入門。武技にすぐれ、和歌を冷泉為泰に習う。昭和三年贈正五位。養嗣子庄七胤貞は遺志を継承。民吉を助けて肥前に派遣、四年間製法を修練させた。昭和十三年瀬戸の窯神山に、「津金胤臣父子頌徳碑」が建立された。(三百藩家臣人名事典)
墓碑銘は「鉄心道肝居士」。碑文あり。
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津金胤臣墓所 |
津金胤臣の墓 |
ゆかりの人物リンク |
名前 |
関係 |
補足 |
墓所 |
写真 |
加藤吉左衛門 |
支援 |
江戸時代中期の窯業家、新製染付焼を開発 |
情報求む |
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加藤民吉 |
弟子 |
江戸後期の陶工、瀬戸窯の磁祖 |
愛知県瀬戸市 |
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須賀精斎 |
師 |
江戸時代中期の儒者 |
名古屋市千種区 |
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津金城南坊 |
長男 |
江戸時代中期の尾張藩士、俳人 |
名古屋市千種区 見あたらず |
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徳川治休 |
主人 |
尾張藩主徳川宗睦の長子。尾張藩世子。 |
名古屋市東区 残骸のみ
遺骨は瀬戸市 |
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徳川宗睦 |
主人 |
尾張徳川家 9代藩主。藩校明倫堂を創設。 |
愛知県小牧市 |
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冷泉為泰 |
師 |
江戸時代中期〜後期の公卿、歌人 |
情報求む |
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ゆかりの地リンク |
場所 |
住所 |
説明 |
写真 |
津金胤臣父子頌徳碑 |
愛知県瀬戸市
窯神町112
窯神神社 |
瀬戸窯発展に寄与した津金胤臣とその養子胤貞を顕彰するための碑が昭和13年瀬戸の窯神山に建てられています。
正面の「津金胤臣胤臣父子頌徳碑」は金子堅太郎伯爵の書です。 |
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津金文左衛門胤臣頌徳碑 |
愛知県名古屋市港区
港楽1
港北公園 |
津金文左衛門胤臣は、寛政3年(1791)から熱田奉行兼船奉行となり、熱田前新田を開拓しています。
昭和27年12月に彼の功績をたたえ頌徳碑が建てられています。 |
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尾張磁器発祥之地碑 |
愛知県名古屋市港区
港楽1
港北公園 |
瀬戸窯の磁祖といわれる加藤民吉とその父吉左衛門の功績をたたえ昭和13年に、建てられたものです。当初は辰巳町の稲荷社にありました。
瀬戸窯は、津金文左衛門胤臣の援助により、新しい製磁法を確立することができています。 |
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