人物総覧 く 庄内藩 書家 松ケ岡開墾

名前 黒崎研堂
よみ くろさきけんどう
生年 嘉永五年二月十五日(一八五二)
没年 昭和三年一月十六日(一九二八)
場所 山形県鶴岡市
分類 書家
略歴

 与八郎・馨・聚・敬治・子芳・東瀛(とうえい)。父は庄内藩家老をつとめた酒井了明でその3男として鶴岡で生れる。酒井了恒、酒井調良は兄、白井久井は姉。明治元年(1868)黒崎友信(与助)の養嗣子となる。戊辰戦争では17歳で農兵小隊長として出陣した。明治3年(1870)に旧藩主酒井忠篤に従って鹿児島に赴き同志らと練兵を学び翌年に帰郷。明治5年(1872)松ヶ岡開墾に従事し、開墾場の経営にも参加した。幼少のころより書に巧みであったが、明治19年(1886)、当時日本書道界の第一人者であった日下部鳴鶴が鶴岡に来た折、その書風に心酔して入門した。それ以来研鑽を重ねて庄内における書道興隆の基礎をつくり、書道家松平穆堂、吉田芭竹など多くの門弟を育てた。また、金融機関済急社(のち荘内銀行の前身六十七銀行に吸収された)の社長をつとめるなど、地元の経済界にも貢献し、明治34年(1901)には御家禄派から挙げられて町会議員となった。詩文章にもすぐれ多くの足跡を残した。長男黒崎幸吉はキリスト伝道者として著名。著書「研堂遺稿」。(庄内人名辞典より)
 墓碑銘は「研堂黒崎君之墓」

黒崎研堂墓所

黒崎研堂の墓

黒崎研堂の墓側面

黒崎研堂の墓側面

養父黒崎与助の墓
  
ゆかりの人物リンク
名前 関係 補足 墓所 写真
石川継述 弟子 明治期〜昭和期の書家 山形県鶴岡市
大瀧徳蔵 弟子 明治期〜昭和期の書家、鶴岡聖書研究会 山形県鶴岡市
日下部鳴鶴 明治期〜大正時代の書家。太政官大書記官、明治三書家の一人 東京都世田谷区
黒崎幸吉 長男 明治期〜昭和期のキリスト教学者 山形県鶴岡市
黒崎与助 養父 幕末の庄内藩士、集合隊頭、戦死。 山形県鶴岡市
酒井忠篤 主君 幕末の大名、出羽庄内藩十四万石酒井家11代 山形県鶴岡市
酒井忠悌 弟子 明治期〜昭和期の教育者 山形県鶴岡市
酒井調良 明治期〜大正期の農場経営者、「庄内柿」 山形県鶴岡市
酒井了明 江戸時代後期の庄内藩家老 山形県鶴岡市
酒井了恒 幕末の庄内中老、鬼玄蕃 山形県鶴岡市
重田鉄矢 弟子 明治期〜昭和期の郷土史家、庄内史料研究会を主宰 東京都府中市
白井久井 明治時代〜大正期の教育家 山形県鶴岡市
仙場東太郎 弟子 明治期〜昭和初期の書家 山形県鶴岡市
鳥海良邦 弟子 明治期〜昭和初期の事業家、能書家 山形県鶴岡市
松平穆堂 弟子 明治期〜昭和期の書家 山形県鶴岡市
松木正介 弟子 明治期〜昭和期の歌人 山形県鶴岡市
三矢宮松 弟子 明治期〜昭和期の官吏(林野局長官)、東京根津美術館長 山形県鶴岡市
山崎剛次郎 弟子 明治期〜昭和期の書家 山形県鶴岡市
吉田芭竹 弟子 明治期〜昭和期の書家、東方書道会を設立する 東京都田無市


ゆかりの地リンク
場所 住所 説明 写真
松ヶ岡開墾場 山形県
 東田川郡羽黒町
  猪俣新田
松ケ岡開墾に参加
黒崎研堂漢詩碑 山形県
 東田川郡羽黒町
  猪俣新田
黒崎研堂を偲び、書の弟子達が建てた漢詩碑

松ヶ岡開墾に従事し、開墾場の経営も一時携わったことから現在地に移されている。
贈従三位酒井忠徳公頌徳碑 山形県鶴岡市
 馬場4-1
  庄内神社
庄内藩7代当主で藩の財政を再建し、藩校致道館を開校するなど藩中興の英君といわれる忠徳の功績を称える碑。
篆額:徳川家達
撰文:黒崎研堂
書:本間光彌