名前 |
松平親懐 |
よみ |
まつだいらちかひろ |
生年 |
天保九年(一八三八) |
没年 |
大正三年九月二十日(一九一四) |
場所 |
山形県鶴岡市 |
分類 |
庄内藩家老・官吏 |
|
略歴 |
庄内藩中老松平権右衛門(親敏)の長子として生まれ、字は子哲、通称権十郎。また親太郎、丑之助、市之允とも称した。安政6年(1859)に家督を継いで組頭となった。文久元年(1861)蝦夷地副奉行となり蝦夷地の警備に当たった。文久三年(1863)中老に進み新徴組御用掛となった。翌元治元年(1864)9月200石を加増され1000、同年11月江戸定府を命ぜられ、慶応元年(1865)4月から庄内藩の江戸市中取締の指揮をとった。幕府の信任厚く幕議にも参与した。同2年(1866)4月幕府の老中稲葉正邦から酒井右京、大山庄太夫らの藩内改革派が幕府に陳情書を提出していることを聞き、同年10月改革派の逮捕に踏み切った。翌3年(1867)9月改革派に対し大斬罪を下し(丁卯の大獄)藩論の統一を図り戊辰戦争に臨んだ。戊辰戦争では軍事掛として庄内藩を総帥し、2200石に加増。明治2年(1869)松平甚三郎とともに大泉藩大参事となり、同年洋学所を元曲師町に開設した。廃藩置県後、第二次酒田県が置かれた時、参事に任ぜられ、県政の中心として活躍。明治5年(1872)後田山開懇地の総取締として事業を推進した。翌6年(1873)半年貢の金納をめぐってワッパ騒動が起こり県政が混乱したため、翌年12月三島通庸が酒田県令に任命された。明治8年(1875)8月酒田県は廃止され鶴岡県となり、三島がひきつづき県令となり親懐が参事に任命された。ワッパ騒動の裁判は明治11年(1878)11月判決が下され、禁獄235日に処せられた。後田山開墾総取締は明治44年(1911)まで続けた。(三百藩家臣人名事典より)
墓碑銘は「松平親懐之墓」
|
松平親懐墓所 |
松平親懐の墓 |
ゆかりの人物リンク |
名前 |
関係 |
補足 |
墓所 |
写真 |
稲葉正邦 |
交友 |
幕末の大名、山城淀藩十万二千石稲葉家12代、京都所司代、徳川慶喜を補佐、幕府最後の老中、維新後華族(子爵)、神道本局初代管長 |
東京都港区 |
|
大山庄太夫 |
対立 |
江戸時代後期の庄内藩士、天保の転封騒動に功、文久の藩政改革を画策、反対派により捕らえられ自刃 |
山形県鶴岡市 |
|
金井允釐 |
ワッパ事件 |
幕末の庄内藩士、維新後警部、判事 |
東京都港区 |
|
酒井忠篤 |
主君 |
幕末の大名、出羽庄内藩十四万石酒井家11代 |
山形県鶴岡市 |
|
酒井忠孝 |
松ヶ丘開墾 |
明治後期〜昭和期の農政家、松ヶ岡開墾場第2代総長、 |
山形県鶴岡市 |
|
菅実秀 |
ワッパ事件 |
幕末の庄内藩家老、維新後官吏、『南洲翁遺訓』を刊行 |
山形県鶴岡市 |
|
竹内右膳 |
補佐 |
幕末の庄内藩士、新徴組頭 |
山形県鶴岡市 |
|
田中正造 |
松ヶ丘開墾社
社員 |
大正期〜昭和期の実業家 |
山形県鶴岡市 |
|
長沢惟和 |
弟 |
幕末〜明治期の官吏、郡長を歴任 |
山形県鶴岡市 |
|
松平権右衛門 |
父 |
江戸時代後期の庄内藩家老、親敏 |
山形県鶴岡市 |
|
松平甚三郎 |
同僚 |
幕末の庄内藩家老、維新後大泉藩大参事 |
山形県鶴岡市 |
|
松平親民 |
長男 |
明治期〜大正期の地方政治家 |
山形県鶴岡市 |
|
松宮長貴 |
部下 |
幕末の庄内藩中老、維新後北海道開拓 |
山形県鶴岡市 |
|
三島通庸 |
ワッパ事件 |
幕末の薩摩藩士、明治期の官僚、酒田、鶴岡、山形、福島、栃木県令、警視総監。民権運動家を弾圧 |
東京都港区 |
|
森藤右衛門 |
ワッパ事件 |
明治初期の自由民権運動家、、ワッパ騒動の指導者 |
山形県酒田市 |
|
山岸貞文 |
ワッパ事件 |
幕末の庄内藩士、維新後松ケ岡開墾を指揮、第六十七国立銀行頭取 |
山形県鶴岡市 |
|
山高瑛三郎 |
義弟 |
幕末の幕臣、維新後松ケ岡開墾等 |
山形県鶴岡市 |
|
|
ゆかりの地リンク |
場所 |
住所 |
説明 |
写真 |
松ヶ岡開墾場 |
山形県東田川郡羽黒町猪俣新田 |
松ケ岡開墾の総取締 |
|
|