人物総覧 お
 庄内藩 丁卯の大獄

名前 大山庄太夫
よみ おおやましょうだゆう
生年 文化五年(一八〇八)
没年 慶応二年十一月十三日(一八六六)
場所 山形県鶴岡市
分類 庄内藩士
略歴

 留守居役。父は庄内藩士で葛飾北斎に絵を学んだ大山庄輔(北李)でその長男として江戸に生まれる。佑輔、鐙之助、安直、鶴陵とも称した。文政九年120石の家督を継ぎ、八代藩主忠器の近習に選ばれた。忠器に重用され、天保2年供頭となり物頭を経て天保9年留守居役となった。天保11年、長岡転封の幕命が下った時、庄内農民が阻止運動に立ち上がり、ついに幕命を撤回させたが、この時、庄太夫は殊功を立てたと伝えられる。天保13年忠器が隠居し長子忠発に家督を譲ってからも忠器の権力は強く、庄太夫はその信任を受け弘化2年350石に加増された。その頃から庄太夫は酒井右京、酒井奥之助、松平舎人ら藩老の藩主廃立の陰謀に加担し奔走した。嘉永7年には忠器が没すると用人を免じられ、200石に減知され庄内勤務を命ぜられる。さらに文久元年大納戸に任ぜられた。庄太夫は翌文久2年病気を理由に隠居し、養子春治が家禄を相続。春治は酒井奥之助の子酒井権七郎の妾腹の子であった。庄太夫は隠居後も江戸の同志と連絡を取りながら松平慶永らの公武合体派と通じ、藩政改革の陰謀を続けた。酒井右京とともに改革派の中心人物として活躍したが、藩の主流派は佐幕一辺倒の道を猛進し、ついに長州征伐に失敗。藩内に批判勢力の起こることを恐れ、慶応2年改革派を一斉に逮捕し、翌3年9月断罪を下し、藩論の統一を図り幕末動乱期に備えた。この事件は「丁卯の大獄」と呼ばれ、処罰された者、二十数名にのぼった。庄太夫は慶応2年11月9日自宅に監禁され、親類の監視下に置かれ、13日朝、雪隠で覚悟の自殺を遂げた。遺体は塩漬けにして屋敷内に仮埋葬し、足軽に監視させ、断罪ののち慶応3年9月11日萱場の刑場で腰切りの刑に処した。享年60歳。円成院居士。(三百藩家臣人名事典、庄内人名事典など)
 墓碑銘は「大山庄太夫之墓」
 墓は私が訪ねる直前に修復されています。


大山庄太夫墓所
 
大山庄太夫の墓

大山庄太夫の墓(側面)
  
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