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掃苔総合スレッド
日時: 2003/03/11 23:52
名前: 五輪塔
参照: http://www4.airnet.ne.jp/soutai/
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源頼家、範頼の墓
日時: 2005/10/05 22:02
名前: しゃけ
参照: http://www5f.biglobe.ne.jp/~syake-assi/
先日修善寺に行って、源頼家と範頼の墓を見て
きました。先に頼家の墓から訪問したんですが、
もう日が落ちてしまっていたため、薄暗かった
のが、残念でした。そして範頼の墓についた頃は
完全に真っ暗でした…。悔しいので再度訪問しよう
と思っています。
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Re: 掃苔総合スレッド
日時: 2005/10/02 21:19
名前: もへい
参照:
加藤寛治海軍大将の墓を捜しています。
家に加藤大将の書があって最初は「寛治書」としか書かれてなかったのですが調べていくうちに加藤寛治大将だと判ったのでお墓に行ってお参りして来たいのです。どうかよろしくお願いします。
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Re: 掃苔総合スレッド
日時: 2005/09/26 17:11
名前: 安倍家について
参照:
祖父について検索していてここにいきつきました
私は残念ながら姓は変わっておりますが、
画家として紹介されております安倍栄作の孫にあたります
祖父と管理人さんとでどのようなご縁が有ったかは存じませんが
補足させて頂ければと思います
詳しい本などでは武藤家が出羽を賜った際に安倍という者も同行していたとあります
安倍宗任が大宰府に流された後の子と言われており
鶴岡の家には家系図も有りました
何代かは忘れましたが奥州安倍家の直系で、次代も亡くなり今は従兄弟が安倍家をついでいます
画家としての方が有名かもしれませんが奥州安倍家の
宗任系の直系として頂ければなおありがたいとおもいます
管理人さんが祖父のお墓に行った際には周囲に多くの安倍なにがしというお墓が沢山あったと思います
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Re: 掃苔総合スレッド
日時: 2005/09/24 21:00
名前: もへい
参照:
訂正

僕が言っている偶数代とは田盛を藩祖とした場合で
藩祖米津田盛、三代政矩、五代政崇、七代政よし以外の藩主です。(よしの字が出なかった)
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Re: 掃苔総合スレッド
日時: 2005/09/24 20:40
名前: もへい
参照:
米津家の菩提寺は東久留米市の米津寺にありますが、すべての偶数代と明治以降のお墓が見つからなかったのですが他に墓所地はあるのでしょうか。
よろしくお願いします。
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Re: 掃苔総合スレッド
日時: 2005/09/23 22:09
名前: 高遠さくら
参照:
五輪塔さま。
いつも、ありがとうございます。

秦重勝墓の情報、ありがとうございます。
時間があれば、訪ねて見るつもりです。

秦神社の隣接墓地内には、一基だけですが深尾家の墓碑がありました。
佐川領主の男爵家なのか、同家の支流であるのかはわかりません。
お尋ねした長宗我部家の末裔の方は、神社の近くにお住まいです。

長宗我部か、長曽我部かは、正確には、「宗」の長宗我部の様です。
長曽我部家は、江戸期は肥後熊本藩主細川家の士族であったようで、今春、熊本へ行った時に行ければと思っていましたが、行けませんでした。

今後も、宜しくお願いいたします。
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Re: 掃苔総合スレッド
日時: 2005/09/23 19:59
名前: 墓マニア
参照:
先日、対馬の伝島左近の墓に行ってきました。感想は。。二度と踏み入れたくないですね。静岡県河津町の林際寺跡にある北条氏忠の墓は、たぶん日本中の墓石のなかで一番わかりにくい場所にあるのでは。。山道(年に数人しか通らないような)から更にそれた所にありました。
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Re: 掃苔総合スレッド
日時: 2005/09/23 03:11
名前: 五輪塔
参照: http://www4.airnet.ne.jp/soutai/
高遠さま、いつもありがとうございます。

瀬戸南町の小田山(高知競馬場の東)に秦家の墓があります。ただし長曽我部家分流の江村家の末裔に当たります。宗家との血縁がどうなっているか私にはよくわかりません。
ここに江村親俊の長男で秦重勝の墓があり慶長十八年に土佐山内家に仕えています。子孫も山内家に仕え、代々の墓が同所にあります。このなかの江村老泉(元文元年〜文化12年:「秦重胤墓」)は京都蓮光寺にある長曽我部盛親の墓を現在の大きさの五輪塔に修復したそうです。
ここの墓地は完全に放置されていて、たどり着くのはかなり厳しいと思います。

上記江村老泉の筆塚でしたら長浜の雪蹊寺に現存しています。

見当違いかもしれませんが、私が知っている高知の秦家関連の情報としては以上です。
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Re: 掃苔総合スレッド
日時: 2005/09/22 22:37
名前: もへい
参照:
高遠さくらさま。

最近、期末テストが入っていて滞っていました。

この前の日曜日に川越に行ってきまして河越重頼の墓に行ったのですが工事中で入れなかったので松平家の墓所の裏から柵越えて見て来ました。
以外ととても墓域が小さく感じました。
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Re: 掃苔総合スレッド
日時: 2005/09/21 21:57
名前: 高遠さくら
参照:
もへいさま。お久しぶりです。

さて、長宗我部家の墓所に関する情報ありがとうございます。
確かに、丸橋忠弥は長宗我部家の末裔を称してますね。
丸橋忠弥の墓は、品川区の妙蓮寺にもあります。
今後も、宜しくお願いいたします。
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Re: 掃苔総合スレッド
日時: 2005/09/21 16:38
名前: もへい
参照:
高遠さくらさま。

江戸期の長宗我部家の墓所ですが、東京都豊島区目白の金乗院の墓地の高台に子孫代々の墓所があります。
そこには、長宗我部家の子孫と称する丸橋忠弥があり、その脇に一族の墓所があります。

このお寺は五色不動で有名で他に墓地には日本図書館の祖、青柳文蔵の墓があります。
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Re: 掃苔総合スレッド
日時: 2005/09/21 00:48
名前: 高遠さくら
参照:
江戸期の長宗我部家の墓所地に関して、何かわかりましたらご教示ねがいます。

長宗我部宗家は、盛親で断絶しますが、元親の弟、或いは叔父だったか?失念しましたが、その家系は江戸期、高知藩主山内家の家臣となり、現在に至っています。
江戸期は、長宗我部姓は名乗れず、秦姓を称していましたが、明治後、長宗我部姓に復姓しています。
江戸期の墓所地は、高知市長浜にある秦神社の隣接墓所にあるとも聞いていました。

5年前に長浜へ行きましたが、神社の左側に墓地がありましたが、秦氏の墓碑は見当たりませんでした。
もし、江戸期の秦(長宗我部家)の墓所地に関して何か情報があれば、よろしくおねがいいたします。
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Re: 掃苔総合スレッド
日時: 2005/09/16 23:31
名前: 高遠さくら
参照:
佐多さま。

再度、宮之城島津家の墓碑に関して詳細にご教示いただき、ありがとうございます。
宮之城島津家の墓形が家形であることは聞いていましたが、可なり大きな墓碑のようですね。

種子島にある島津家家老の種子島家の墓碑も家形の内部に五輪塔を建造したものでした。
その反面、都城島津家や今和泉島津家・重富島津家・佐土原島津家の墓碑には、家形の墓碑は一基も見られませんでした。

島津各家でも、独自の墓碑を踏襲建造しているようですね。
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Re: 掃苔総合スレッド
日時: 2005/09/16 00:10
名前: 佐多
参照:
高遠さま
宮之城家の墓数が不親切でしたので、改めて記載します。
二代忠長公、忠長公室、忠長公嫡男忠倍、忠倍室
三代久元公
四代久通公、久通公室、久通公嫡男久武
五代久竹公、久竹公室、久竹公次男久知
六代久洪公、久洪公室、久洪公次男忠茂
七代久方公(綱貴公四男)、久方公室(久洪公女)
八代久倫公、久倫公室、久倫公後室、久倫公二女
九代久亮公(吉貴公五男)、久亮公室
十代久濃公(久倫公男)、久濃公室
十一代久郷公(宮之城二男家島津新八郎久平嫡男)、久郷公室、久郷公次男山林直之助尚央
十二代久儔公、久儔公嫡男
十三代久中公
十四代久寶公(久中舎弟)、久寶公室、久寶公嫡男
宮之城島津家(十五代以降)
祖先世功碑
殉死者の墓もあったような気がします。(二基?)
二代忠長公と室のみ宝ぎょう院塔で三代〜十四代までは家型墳墓です。(一部違うのもあります)知覧や加治木にもこの型はありますが、宗功寺のものは巨大で一見の価値があります。


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Re: 掃苔総合スレッド
日時: 2005/09/12 19:35
名前: 高遠さくら
参照:
佐多さま。

宮之城島津家の墓碑数に関してご教示いただき、ありがとうございます。
また、当初、明治後の墓所地が鹿児島市吉野町に建造されていたということは、初めて聞きました。
吉野町磯は、島津宗家(磯公爵)の地ですが、寺院ではなく、島津男爵家の専用墓地があったんでしょうね。

今後も宜しくおねがいいたします。
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Re: 掃苔総合スレッド
日時: 2005/09/11 23:52
名前: 佐多
参照:
薩摩の郷土史研究家さま
いつもありがとうございます。
武町です。地元で宮之城町史をコピーしようとしたら近在の人でないとカードが作れず複写も出来ないと言われました。知覧では複写可能でした。場所によって対応が違うので困ったもんです。佐志家は私領の寺に墓所が無いようです。(郷土史にいっさい記載無し)東京小平霊園は近代墓です。(昭和46年建立とあり、もしかしたら廃棄されているかも?)御下姫の遺領を相続したので本家の三男家に準ずる家格だったそうで鹿児島に墓所を設定していたのですかね?

高遠さま
宮之城島津家墓所は二代〜十四代まであります。十五代久治公以降(久治公、奥方、長丸氏、治子氏)は鹿児島市吉野町に埋葬されていたのを平成三年に宗功寺墓地へ改装したそうです。(33基?忠倍公と室もあります…正式には忠長公世子です。又久通公嫡男久武公もあります…江戸で亡くなり芝大円寺にもあったそうです)
久元公室は御下姫なので、佐志にあります。久儔公室も無いです。(誰か不明)何年か前の地震で被害があったような話を聞きましたが普通の状態ではありました。

墓所のところに歴史センターがあります。しょぼいですが、宮之城家と佐志島津家の系図が展示してありました。郷土史では途中までしか記載されていないので見てみたいですね。(巻いてあるので全部見れない)
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Re: 掃苔総合スレッド
日時: 2005/09/10 08:55
名前: 薩摩の郷土史研究家
参照:
佐多さま

笑岳寺墓地とは鹿児島市武町にあった墓地のことでしょうか。もしそうであれば昭和46?年頃までに廃止され、山上の武岡墓地に改葬されています。旧墓地跡は宅地化され公園にもなっています。笑岳寺墓地にあった島津家の墓は鹿児島市池ノ上町島津家墓地に改葬されました。ただこの墓が佐志島津家の墓であるのか私は確証はありません。武岡墓地に島津家の墓がないのは確かです。佐多家の墓は数基あります。
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Re: 掃苔総合スレッド
日時: 2005/09/09 23:06
名前: 佐多
参照:
佐志島津家の鹿児島での墓地を誰かご存知でしょうか?宮之城町史には笑岳寺墓地にあったと記載されています。現在もあるのでしょうか?現在の当主の方は小平霊園に墓所を設けています。よくみれば確かに佐志家の家紋が彫りこんでありました。
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Re: 掃苔総合スレッド
日時: 2005/09/09 23:00
名前: 高遠さくら
参照:
佐多さま。
ご無沙汰しております。

宮之城島津家の宗功寺跡へは前回、鹿児島へ行った時に調査を予定していましたが、行けませんでした。

同墓所に全何基の墓碑があるのか、わかりましたらご教示願います。

確かに佐多さまが言われるように、長年寺跡にしても各所の島津家一族の墓所の多くは廃寺であるために、住宅地図にも記載されていないので、わかりづらいですね。
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Re: 掃苔総合スレッド
日時: 2005/09/08 01:20
名前: 佐多
参照:
九月二日から六日の予定で鹿児島へ行きましたが、まんまと台風にぶつかり帰れませんでした。宮之城島津家と知覧島津家、加治木島津家墓地を見てきました。加治木家の墓地は二ヶ所あり木田の長年寺跡を探すのが大変でした。手前に家臣の墓がありそこを探してしまいました。知覧では郷土誌に名前の見えない杢久治という墓がありました。杢は代々当主が名乗っていたので嫡子扱いしていた実子か養子の方だと思います。剛次郎の婿養子吉麿の墓もありました。麓の佐多さんとお話出来たのですが、吉麿さんは酒匂家からの養子みたいです。忠弘さんの母は剛次郎の後室広子さんの姪にあたる方のようです。隣の墓にお参りしていたおばさんが言うには昔はもっと墓があったそうで団地を作るのに廃棄してしまったそうです。旧郷土誌にも53基くらいはあったと確か記載されていました。さみしい限りですね。
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Re: 掃苔総合スレッド
日時: 2005/09/07 01:40
名前: マルス館長
参照:
薩摩の郷土史研究家様、はじめまして。

時期ですが…3日前の日曜日です。ちょうど台風14号の影響を受け始めた頃郡元墓地に籠ってまして、そのあと夜になるとダッシュで高速バスに乗って台風から逃れましたよ。それから撮った墓碑についての追跡調査で検索かけてるうちにここに辿り着いたというわけなんです。

もちろん写真も撮ってありますので、ご希望でしたら準備いたします。


(^^;)
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Re: 掃苔総合スレッド
日時: 2005/09/06 16:24
名前: 薩摩の郷土史研究家
参照:
マルス館長さま

情報ありがとうございます。井上良智の名を「黒木家」銘碑中に確認されたそうですが、時期はいつの頃でしょうか?確かに黒木家の墓はずいぶん前からありましたが現在、この墓は撤収されています。
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Re: 掃苔総合スレッド
日時: 2005/09/06 01:15
名前: マルス館長
参照:
突然の乱入失礼いたします。
たまたま別件を調べて検索かけた折に流れ着いてしまいました。

井上良智さんの御墓につきましてですが、鹿児島の郡元墓地にてその名を確認しております。墓碑は「黒木家」の御墓であり、傍の銘碑の筆頭に「井之上助右衛門良器命」と刻まれその次に「同良智命」とあります。残念ながら没年月日が無い上、墓碑も銘碑も新しいものになっていますので当該人物と同一かは不明ですが、墓所には「明治二十九年十月」の献灯もありますので元々古くからあった墓所であることは間違いないと思います。

位置は墓地の入口、松方正義さんのご両親の御墓から登っていくと井上家の御墓が見えると思います。その隣の黒木家の御墓が当該墓碑です。

参考にでもなれば幸いです。(^_^)
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Re: 掃苔総合スレッド
日時: 2005/09/01 22:15
名前: もへい
参照:
高遠さくらさま。

ありがとうございます。
掃苔好きにはたまらない季節になってきました。

先日、京都に行ってまいりました。
黒谷で『黒谷に眠る人々』という本を買って墓地を見ました。
前に高遠さくらさまにお聞きした真如堂の三井家の墓地は江戸時代の墓碑は拝観出来ましたが明治以後は拝観出来ませんでした。
感じたことは東京の墓地は整地されているという感じを受けますが京都の墓地は乱雑になっているような感じを受けました。
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Re: 掃苔総合スレッド
日時: 2005/08/31 19:27
名前: 高遠さくら
参照:
薩摩の郷土史研究家さま。
いつも、ありがとうございます。

寿国寺と浄光明寺に関する現住所、並びに関連情報をご教示いただき、ありがとうございます。
実は、両寺跡は江戸期、島津宗家の数人の葬地であり、現在は福昌寺跡に改葬されていますが、正確な所在地がわかりませんでした。

浄光明寺は、現在の南州墓地ですか。
二年前に行った時、4時間ほど薩摩士族の墓碑を色々と記録し、その後、常安の峰墓地に行きました。

その中で、以下の墓碑がありました。

米良助三郎則之墓
右側面  ★年 二十七歳
左側面  明治十年丁丑四月廿六日 日向國延岡ニ於テ戦死

南朝の忠臣である菊池武光公の後裔は、江戸期、宮崎県西米良を領する交代寄合高家となっていますが、同家の資料を見ると、六代米良主水正重隆の項に以下の記載があります。

重隆、朝鮮の役に二度、出兵する。
島津家の要請により庄内の乱に弟・重朝とともに出兵奮戦し、島津家の旗下に請われたが、これを断り弟重朝の嫡子・重住が仕え、子々孫々島津家の家臣となる。

多分、則之は重住の後裔と思うのですが、何かわかりましたら、度々で申し訳ございませんが、宜しくおねがいいたします。

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