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掃苔総合スレッド
日時: 2003/03/11 23:52
名前: 五輪塔
参照: http://www4.airnet.ne.jp/soutai/
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Re: 掃苔総合スレッド
日時: 2005/07/30 23:06
名前: お尋ね
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武蔵守さま

有吉家にお詳しいようなのでお尋ねします。
1年ほど前に亡くなられましたが、福岡の一番食品椛n業者の有吉会長も熊本藩有吉家の関係者ですか?
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Re: 掃苔総合スレッド
日時: 2005/07/30 22:17
名前: 武蔵守
参照:
五輪塔様

正立寺の有吉時陳〜時升の墓の件は全く知りませんでした。ありがとうございます。

有吉市郎兵衛重時にはじまる家は、有吉本家3代の武蔵守立行の嫡女「杉」(後に壽桂と号す。法名は青松院殿長天壽慶大姉)が福島左衛門大夫正則の家士富田與兵衛重冬に嫁ぎ生んだ3男重時が初代です。従って、本姓は富田ですが、福島正則没後、重冬親子は浪人となりました。そこで、有吉本家5代英貴が妹婿につき養いました。その後、細川忠利が重時14歳の折、召し出し御児小姓とし、英貴の猶子である事をもって「有吉」と名乗らせたのです。従って、分家とは言い難いのですが、一門である事には間違い有りません。また、市郎兵衛家から本家へは、本家12代立喜の妻「良」、16代立元の妻「ヨシ」が入っています。一方、本家からは、誰も嫁していません。

初代重時及びその母「杉」(つまり本家5代英貴の妹)の菩提寺は吉祥寺ですから、私は、有吉重時家は全て吉祥寺に入っていると思っていました。
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Re: 掃苔総合スレッド
日時: 2005/07/29 18:46
名前: もへい
参照:
すいません。
元プロ野球選手の大下弘のお墓を探しています。
判るのならばお教え願いませんでしょうか。
お願いします。
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Re: 掃苔総合スレッド
日時: 2005/07/26 08:59
名前: 薩摩の郷土史研究家
参照:
五輪塔さま
床次家は大徳寺墓地のそば新照院町に家がありました。
平山東岳すなわち平山家は当方の親戚になります。
東岳の墓は大徳寺にありました。現在は鹿児島県錦江町(合併前は肝属郡田代町)に墓があります。東岳の子孫の方が移設しました。ただ、私は行ったことはありません。内田政風、能勢一清、内山一観の墓所は知りませんが、判明したらお知らせします。
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Re: 掃苔総合スレッド
日時: 2005/07/26 01:36
名前: 五輪塔
参照: http://www4.airnet.ne.jp/soutai/
薩摩の郷土史研究家さま、返信遅れました。

大徳寺に墓があった床次家の墓が唐湊墓地にあるので、大徳寺墓地はてっきり唐湊墓地に移転したものと思っていました。そういえば床次家も大徳寺のすぐ近くに家がありましたよね。

大徳寺には内田政風や絵師の能勢一清、内山一観、平山東岳などの墓があったはずですが、移転先などご存じないでしょうか。
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Re: 掃苔総合スレッド
日時: 2005/07/20 14:53
名前: 薩摩の郷土史研究家
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No92に『文久2年4月23日寺田屋事件の鎮撫使、道島五郎兵衛の墓が、鹿児島市営唐湊(とそ)墓地にあります』と書きました。それ以前は鹿児島市新照院町、大徳寺墓地にありました。(出典:郷土資料第2集・草牟田校区史)道島家は大徳寺墓地の近く、鹿児島城下平之町にありましたので自宅の近くに墓を設けるのは納得できます。大徳寺墓地は昭和35年までに廃止され多くの墓は鹿児島市坂元墓地へ移設され現在に至っています。道島家墓は子孫が市営唐湊墓地へ移設したのでしょう。鹿児島市内の電話帳に「道島」はみえませんので絶家したか、よそへ移転したと思われます。
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Re: 掃苔総合スレッド
日時: 2005/07/20 00:58
名前: 五輪塔
参照: http://www4.airnet.ne.jp/soutai/
武蔵守さま
正立寺には有吉市郎兵衛重時家の墓があります。
墓地入ってすぐの所に六代当主時陳から八代当主の時升の墓を含む八基の五輪塔があります。
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Re: 掃苔総合スレッド
日時: 2005/07/18 12:38
名前: 高遠さくら
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武蔵守さま。

高桐院に関して、色々とありがうございました。
次回、京都へ行く時に許可が取れれば、調査したく思っています。

なお、細川侯爵家の墓所は、サンダルに履き替え、庭を10m位行った所にあり、ここは自由に見学することができます。

今後も、有吉家や同家以外の情報がありましたら、宜しくお願いいたします。
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Re: 掃苔総合スレッド
日時: 2005/07/17 16:37
名前: 武蔵守
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五輪塔 様

熊本の「正立寺に有吉家の墓」という件が気になって調べてみたのですが、正立寺に埋葬されたのは、有吉本家の十四代有吉将監立憲の母ヨヤ一人のみでした。ただしヨヤは後に有吉本家菩提寺の峰雲院に改葬されていました。法名は止信院妙圓日修善宿女です。院殿大姉でないのは、正室ではなく高塚屋彦左右衛門の娘で武家の出でもなく、有吉本家十二代立喜の側室であったためです。

ヨヤは立喜の三男直義、四男貞恒、五男英香、六男言貴を生していますが、寛政元年六月二十日に三十歳でなくなっており、その際には十二代立喜とその正室「良」(有吉分家の中老有吉市左衛門時国の娘)が未だ存命で、そののち十三代主膳立直が相続、そして十四代を立喜五男の英香が相続して将監立憲となるに及び、ヨヤを有吉家族として峰雲院に改葬したものと思われます。

これ以外に正立寺と有吉家の関係はないと思いますが、もしご存じの事がありましたら、その方の俗名なり法名なりご教示下されば幸甚です。

加えて、高遠さくら 様

京都大徳寺高桐院に長岡孝之様および蓮丸様の墓の有無は、残念ながら存じません。しかし、ご住職の松長剛山老師が高桐院内の墓の配置図を作っておられましたから、直接おききになられた方が早いと思います。高桐院の、高遠さくら様がおっしゃっていた歴代藩侯の墓石は一般公開されている庭にあるもののことでしょうか?そちらではなく、高桐院の墓所(内玄関に面して右手に簡単な竹を横に「行き止め」の表示にしてある奥にあります)の一番奥の塀ぞいに古い墓石が並んでいますのでそこにあるのではと思いますが。
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Re: 掃苔総合スレッド
日時: 2005/07/05 08:27
名前: 薩摩の郷土史研究家
参照:
私の説明がわるかったようです。
田上(たがみ)墓地=唐湊(とそ)墓地です。
地元の方は両方の呼び名を使用しています。この墓地は田上町と唐湊町にまたがっている大きい墓地ですので、この混同があります。約7000基の墓がありますが比較的新しい墓が多いですね。
ところで道島五郎兵衛の墓が京都にあることを初めて知りました。どこにあるのでしょうか?教えて下さい。
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Re: 掃苔総合スレッド
日時: 2005/07/05 02:32
名前: 高遠さくら
参照:
武蔵守さま。

更なる有吉家墓に関する詳細な情報ありがとうございます。
高桐院へは二年前に行きましたが、細川侯爵家の各藩主墓の塔身部の裏面に略歴が列記されていたために、それを全て記録するのに1時間もかかってしまい、次の予定があったために、それ以外の墓碑に関しては未調査でしたので大変、参考になりました。

三淵好重の室は、姪にあたる兄の細川藤孝の女栗ですが、栗の弟の孝之と蓮丸も手元の資料を見ると高桐院に埋葬されていますが、この二人の墓碑は確認されましたでしょうか。

長岡孝之 泰林院殿一空宗也大居士 正保4年7月7日歿

細川蓮丸 賢勝院殿梅林宗香大童子 天正15年7月17日歿

何か、わかりましたら宜しくお願いいたします。
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Re: 掃苔総合スレッド
日時: 2005/07/05 01:10
名前: 五輪塔
参照: http://www4.airnet.ne.jp/soutai/
薩摩の郷土史研究家さま、いつもありがとうございます。

道島五郎兵衛の件は知りませんでした。
田上墓地は墓地入って左手の山あいにある墓地のことですよね。唐湊墓地はうっとりするような墓がたくさんありますが、田上墓地の方はぱっと見た目、新しい墓ばかりでなおかつ階段の登り降りがかなりしんどそうだったのですぐにまわるのをやめてしまいました。

それにしても、京都にある墓は史跡として大事に保存されているのに、生まれ故郷で大事にされないのは残念な話です。
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Re: 掃苔総合スレッド
日時: 2005/07/05 00:46
名前: 五輪塔
参照: http://www4.airnet.ne.jp/soutai/
武蔵守さま、書き込みありがとうございます。
かなり詳細な内容で、大変参考になりました。
高桐院の件は知りませんでした。

有吉家は本家も分家も(確か正立寺にもありますよね)歴代当主夫婦や一族の墓がかなり残っていますね。
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Re: 掃苔総合スレッド
日時: 2005/07/04 23:43
名前: 武蔵守
参照:
すみません、先ほどの記事一カ所書き間違えてました。
有吉貞之は5代英貴の兄4代興道の嫡男というのが正しいです。

4代有吉内膳興道が病死の際、嫡男である貞之が未だ6歳(当時の名乗りは武平)であったため、興道の弟英貴(当時の名乗りは立道)が藩主細川忠興の命により有吉本家を継いで有吉頼母佐英貴となったのです。英貴の死後は家禄を当然兄興道の子にかえすべきところ、英貴の嫡男英安の母(つまり古屋姫)は藩主忠興の叔母。当時は未だ幕藩体制草創期ですから、細川藩主家は軍団長つまり家老家との姻戚関係を強化中です。加えて、貞之の母は正室ではありませんでした。それで、英安はわずか9歳で有吉本家を継いで6代となったのです。

しかしその有吉頼母英安も26歳で死んでしまいました。その際、故英貴の妻つまり英安の母古屋姫が本家を夫の兄興道の血筋に返すことを決定したと言われています。その際、貞之はすでに新知1500石で番頭を務めていましたが、漸く本家家禄1万8千5百石、家老職、大組頭(軍団長です)となりました。貞之の法号は常覚院殿本岸宗基大居士です。また、貞之の妻は5代英貴の長女:梅です。
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Re: 掃苔総合スレッド
日時: 2005/07/04 20:57
名前: 武蔵守
参照:
高遠さくら 様

熊本市島崎の霊樹庵は明治に廃寺となっていますが、茅葺き建物は現存しています。「松本」様とおっしゃる方のお屋敷内に霊樹庵の建物を維持されていました。墓所の方は現存し、その墓所の中に「西の武蔵塚」があります。タクシーで「島崎の『西の武蔵塚』行って」と言えば、墓所の登り口まで行ってくれます。

墓所の入り口は上り坂になっていますが、その坂のすぐ左手に有吉本家六代の英安(長徳院殿栄室宗運大居士)とその妻竹姫(長壽院殿心空宗本大姉)の高さ2メートル以上ある五輪塔が玉垣に囲まれて並んで立っています。竹姫は細川忠利の姫です。その手前には、英安に殉死した有吉家の家士の墓が2つ(将棋の駒のような形の墓)並んでいます。五輪塔様の言われた「英長」とは英安の前の名乗りで春清〜平吉〜英長〜英安と名乗りを変えました。英安は26歳で若死にしたので、英安の兄4代興道の嫡男貞之が有吉本家7代を継いで、7代以降の墓所は菩提寺の峰雲院に戻ります。

坂を上りきった所に、「西の武蔵塚」がありますがその、左手一帯が有吉清助家(3千石取り)の墓所で、維新までの清助家代々の墓があります。墓所の中央に位置するのが古屋姫つまり5代英貴の妻であり6代英安の母である古屋の墓です。法号は霊樹院殿性渓宗見大姉。横に古屋姫の大きな説明書きの柱が立っていますので容易にわかります。

古屋姫は細川忠興の養女として英貴に嫁ぎましたが、実は細川幽斎の弟三渕伊賀守好重の姫です。豊臣秀頼の姫という伝説もあります。もちろん五輪塔ですが小さく1メートル位。霊樹院とは古屋姫が夫英貴の死後名乗ったもので、それが庵号になっているのです。霊樹姫の墓の施主は志弥美姫で、たしか古屋姫の娘さん。その志弥美姫の五輪塔も古屋姫の近くに在ります。これも小さな五輪塔です。

なお、京都大徳寺高桐院に、「三渕伊賀守好重、有吉英貴(陽光院殿剛運常堅大居士)、古屋姫(霊樹院殿〜)」の3名連名の墓1基、その隣に「有吉英安(長徳院殿〜)」の墓1基が並んで立っています。高桐院の奥に「出雲お国」の墓がありますがその近くの外塀沿いです。住職さんに聞かないとわからないと思いますが。これは五輪塔ではなく卒塔婆型というのでしょうか?これも2メートルを越えます。
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Re: 掃苔総合スレッド
日時: 2005/07/04 08:53
名前: 薩摩の郷土史研究家
参照:
文久2年4月23日寺田屋事件の鎮撫使、道島五郎兵衛の墓が、鹿児島市営唐湊(とそ)墓地最上段にあります。〔田上(たがみ)墓地ともいいます〕以前は同墓地六合目付近にありましたが、無縁墳墓であったために鹿児島市が撤去整理し、同墓地最上段に他の無縁墳墓と共にまとめました。
道島五郎兵衛の墓には碑文がびっしり彫ってあります。涼しくなったら墓の掃苔をして、碑文を書き写すつもりです。(今は梅雨明け前で蒸し暑い)
とりあえず報告でした。
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Re: 掃苔総合スレッド
日時: 2005/07/02 02:00
名前: 高遠さくら
参照:
武蔵守さま。

有吉家墓に関する情報ありがとうございます。
先月、私は霊樹院には時間が無く行けませんでしたが、次回、熊本に行く時には寄りたく思っています。

五輪塔さまと同じく、7月1日まで1週間、地方に行っていたので(一緒じゃないけど)遅くなりましたが、今後も、色々な情報をお願いいたします。
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Re: 掃苔総合スレッド
日時: 2005/06/29 23:40
名前: 武蔵守
参照:
高遠さくら様 五輪塔様
島崎の霊樹庵は、有吉家本家(家老家)の5代頼母佐英貴の妻古屋姫の屋敷跡で、その古屋姫及び、本家6代頼母英安とその妻竹姫、及び6代英安の跡を相続した有吉清助家(有吉の分家)一門の墓所です。また、峰雲院は5代英貴が肥後入国時開基した有吉本家の菩提寺で、上記の3名を除く、初代立英〜先代である21代男爵立生までの各代々夫妻の五輪塔、及び有吉家から嫁に出ずに亡くなった女性、婿に出る前に亡くなった男性の墓が入っています。なお峰雲院にある五輪塔は全て代々夫妻のものです。
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お知らせ
日時: 2005/06/28 00:27
名前: 五輪塔
参照: http://www4.airnet.ne.jp/soutai/
6月28から7月1日にかけて出張のためメール、掲示板を見ることが出来ません。ご了承ください。
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Re: 掃苔総合スレッド
日時: 2005/06/09 00:08
名前: 五輪塔
参照: http://www4.airnet.ne.jp/soutai/
本門寺に気を取られて廻りのお寺をあまりまわれなかったので、次回訪ねるときには是非お参りしたいと思います。
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Re: 掃苔総合スレッド
日時: 2005/06/06 00:09
名前: 高遠さくら
参照:
とおさま。更なる情報ありがとうございます。

細川隆元さんの墓所は、当初から東京ではと思ってはいましたが、今後、何か新情報があれば宜しくお願いいたします。
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Re: 掃苔総合スレッド
日時: 2005/06/05 17:43
名前: とお
参照:
高遠さくらさま
隆虎氏ー隆顕氏の牧崎分家墓を九州大学教授をしていた隆英氏が福岡に移設されましたが、墓の場所は知りません。
なお、隆虎氏次男の隆志氏、三男の隆元氏の墓はそれぞれ東京にあると聞いていますが、場所は知りません。
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Re: 掃苔総合スレッド
日時: 2005/06/05 00:19
名前: 高遠さくら
参照:
とおさま。
牧崎分家の改葬先に関する情報ありがとうございます。
とおさまは、細川家の墓所が福岡のどこへ改葬されたのかを、ご存知でしょうか。
また、ご教示いただくことは可能でしょうか。
今年は、もう九州に行くことはないと思いますが、来年行きたく考えています。
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Re: 掃苔総合スレッド
日時: 2005/06/04 00:40
名前: とお
参照:
忠顕(忠虎次男)-隆虎┬隆顕-隆英。
   ├隆志-隆一郎-
   └隆元(三男)。

細川内膳家牧崎分家(細川隆元系)の墓は、1960年頃に千原瑞岩寺跡地から福岡に移転されました。


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Re: 掃苔総合スレッド
日時: 2005/06/02 00:00
名前: 高遠さくら
参照:
先日、細川忠隆男爵家の墓所へ行ってきました。
墓所地は、すぐにわかりましたが、簡単にご報告しておきます。
交通は、熊本バスセンターから城西校行きのバスで終点で下車します。丁度、十字路なので右折し、最初の道を右折し、二本目を左折した奥が細川家の墓所地です。バス停からは、150mほどです。
墓域内には、全52基の墓碑がありましたが、分家墓は隆恒家と隆春家だけで、隆元の墓碑はありませんでしたが、祖父の忠顕の墓碑はありました。

情報をくださった、とおさま、改めてお礼申し上げます。
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