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掃苔総合スレッド
日時: 2003/03/11 23:52
名前: 五輪塔
参照: http://www4.airnet.ne.jp/soutai/
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Re: 掃苔総合スレッド
日時: 2005/08/08 20:28
名前: 高遠さくら
参照:
五輪塔さま。
大須賀町の調査、ご苦労さまです。

私も7年前に行きましたが、本多家墓の調査中に雷雨になり、止むまで待っていたら日没になってしまい、諦めてホテルに戻ったことを思い出しました。

さて、本多家の三藩主の墓碑は石柵内に並んでいますが、隣接してL字形に30基ほど宝篋印塔墓がありますが、同墓は本多家の婦女子墓?でしょうか。
違うような気もしているのですが、雷雨のため記録できなかったのですが、五輪塔さまの書き込みを見て、ふと思い出しました。

何か、わかりましたら宜しくお願いいたします。
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Re: 掃苔総合スレッド
日時: 2005/08/08 01:51
名前: 五輪塔
参照: http://www4.airnet.ne.jp/soutai/
高遠さくらさま、薩摩の郷土史研究家さま、佐多さま、いろいろ書き込みありがとうございます。

土日と掛川市南部、大東町、大須賀町、浅羽町とひとまわりしていたのでへとへとです。といっても小笠郡周辺は最高気温があまり上がらない(ぎりぎり30度ぐらい)地域なので、充分動き回ることが出来ました。

横須賀城下の久世家、井上家、大須賀家、西尾家、本多家の大名墓群は必見ですね。

見落としている可能性もありますが、知覧で島津吉麿さんのお墓は見かけませんでした。
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Re: 掃苔総合スレッド
日時: 2005/08/07 23:16
名前: 佐多
参照:
小平霊園ほぼ終了しました。(壁側の墓地は確認やめました、あんなところまで墓地貸し出しとは。。。東京とはおそろしい)
小平霊園
碇山家(三菱紋、分家か?)
若松家(伊集院氏庶流)
猪鹿倉家(いがくら伊鹿倉家とも、伊集院氏庶流)
大重家(大重兼行氏、伊集院氏庶流)
飛松家(とびまつ伊集院氏庶流か?)
伊集院氏では庶流家途中より通字を俊としていたが、島津重年で読み名が同じとのことで兼の字に変更しています。同流の町田家では俊から実の字に変わっています。
横浜霊園
佐多家(七つ銀杏紋、第二霊園)
黒葛原家(つづらはら伊集院氏庶流、第一霊園)
吉利家(薩州家庶流一引両紋、第一霊園)
めずらしい名前だと判り易いですね。しかし大東京でお目にかかれるとは思いませんでした。
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Re: 掃苔総合スレッド
日時: 2005/08/07 22:11
名前: 高遠さくら
参照:
薩摩の郷土史研究家さま。

岩下方直と方平との関係はよくわかりませんが、同族のようですね。
なお、私はまだ、知覧へは行ったことがありませんので、行かれた五輪塔さまの回答待ちです。

今日、二ヶ月ぶりに本門寺に白河阿部家の墓所を確認に行ったところ、崖下の工事がまだ継続中でしたので阿部家の墓碑はそのままでした。
また、秋ごろ確認に行きます。

東京も暑い。
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Re: 掃苔総合スレッド
日時: 2005/08/07 11:40
名前: 薩摩の郷土史研究家
参照:
鹿児島市草牟田墓地に「岩下方直」の墓があります。岩下方平との関係はどうなんでしょうかね?

佐多さま
知覧の島津墓地にだれの墓があるのか知りません。
高遠さくらさんが詳しいのでは・・・。


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Re: 掃苔総合スレッド
日時: 2005/08/06 23:18
名前: 高遠さくら
参照:
薩摩の郷土史研究家さま。

お暑い中、わざわざ確認調査をしていただき、厚くお礼申し上げます。
ただただ、感謝です。ありがとうございました。

今和泉島津男爵家の墓所地に関しては、分家の方ではありますが直接、お聞きしたものでしたが、紫原町に隣接して郡元墓地がある郡元町がありますので、私自身も誤りではとも考えていましたが、今回の研究家さまの報告で正確なことがわかりましたので、改めてお礼申し上げます。

私も二年前の4月に鹿児島へ行きましたが、すでにTシャツでもいい気候でした。
夏は猛暑、秋は台風があるので、私はいつも九州へは春に行っています。

今後も、色々と宜しくお願いいたします。

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Re: 掃苔総合スレッド
日時: 2005/08/06 22:30
名前: 佐多
参照:
さすが地元ですね。
話は変わりますが、知覧島津家の剛次郎氏の後は忠弘氏(鎮生)になっていますが、間に吉麿という方がいたようです。忠弘氏は昭和17年には中学生(知覧で佐多精一町長がお会いした…昔だったら口も聞けない身分差だったと子供に自慢してたようです。町長の先祖は庶流達山姓)だったので年が合わないとずっと思ってましたが最近の資料で判明しました。この吉麿氏の墓はやはり知覧の島津墓地にあるのでしょうか?
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Re: 掃苔総合スレッド
日時: 2005/08/06 12:11
名前: 薩摩の郷土史研究家
参照:
高遠さくらさま

島津家の墓が郡元墓地にありました。正確な住所番地は住宅地図に載っていませんが、鹿児島市郡元町です。郡元墓地上から2段目の北側に島津家の墓があります。郡元墓地は丘陵地帯を切り開いて作っていますので墓地入口から頂上まで登りになっています。頂上には赤白に塗り分けたテレビ塔が建っていますのですぐにわかります。ここが紫原1丁目になります。

墓碑に島津忠敬 明治27年1月14日 62歳
     隼彦 昭和11年6月5日  59歳
     忠親 昭和20年6月18日 36歳
の文字がみえます。
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Re: 掃苔総合スレッド
日時: 2005/08/06 10:20
名前: 薩摩の郷土史研究家
参照:
高遠さくらさま

朝6時から鹿児島市冷水町興国寺墓地に行って今帰ってきました。朝はわりと涼しいですが昼間は避けたいですね。平田宗城の墓を捜すために行ったのですが、平田家の墓は5箇所20基くらいありましたが残念ながらめぐり合えませんでした。
それはさておき

>明治後の七代忠敬、九代隼彦、十代忠親の墓所地は、鹿児島市紫原町にあることはわかっているのですが、その詳細な住所などご存知でしょうか?

紫原(むらさきばる)町はわたしの居宅がある所です。墓地はありません。ただ紫原町の東隣、郡元(こおりもと)町に大正8年開設の郡元墓地があります。この墓地に島津家の墓が1基ありますのでさっそく確認してみます。

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Re: 掃苔総合スレッド
日時: 2005/08/06 00:38
名前: 高遠さくら
参照:
薩摩の郷土史研究家さま。
更なる情報、ありがとうございます。

さて、岩下方平子爵の墓碑と鹿児島市内の墓地で未だ出会っていないと言うことですので、鹿児島には現存しない可能性が高いですね。
当初、南林寺に埋葬されたが、大正期に青山霊園に改葬されたと考えるのが妥当でしょうか。
また、研究家さまが思われた、大正期に青山霊園にはすでに空地が無いのではという疑問ですが、新規に求めることは不可能に近いと思われますが、方平の嫡子長十郎、または家族の墓所がすでに青山霊園に建造されており、同所へ改葬されたと考えれば、問題はないと思います。

また、伊集院兼寛子爵の先祖も南林寺に埋葬されています。
同家も鹿児島市内の別墓地、或いは青山霊園の何れかに改葬されていると思います。

度々で、大変申し訳ありませんが、下記ことに関して何かわかりましたら宜しくお願いいたします。

今和泉島津家の墓所地は、初代忠郷以降、六代忠冬までは、今和泉の光台寺跡にありますが、明治後の七代忠敬、九代隼彦、十代忠親の墓所地は、鹿児島市紫原町にあることはわかっているのですが、その詳細な住所などご存知でしょうか?

鹿児島市の地図を見ると、紫原町内に霊園らしきものは見られず、磯公爵家の常安の峯墓地のように島津家専用の墓地があるということなのか、詳細がわかりません。

もし、何かわかりましたら、お願いいたします。
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Re: 掃苔総合スレッド
日時: 2005/08/04 23:19
名前: 佐多
参照:
薩摩の郷土史研究家さま
毎度貴重な情報ありがとうございます。
手始めに近在の東京周辺を探訪中です。機会があれば鹿児島へも訪れたいと思います。
しかし、家紋を見てみると各家で違いますね。佐多家では十六代久達が三つ銀杏紋を使用していました。その後父光久公より七つ銀杏を賜り、最後に十文字変形紋を拝領しています。知覧在住の佐多、伊佐敷家はほとんど三つ銀杏紋を使用しています。麓の佐多家では一部五つ銀杏や二つ銀杏、変形三つ銀杏紋などもありますが。川内高城士の佐多家(小平霊園)や城下士佐多家(谷中霊園)が七つ銀杏を使用しているので直臣と陪臣との差が出ていると推測しています。新納家の東京での家紋はまちまちです。時の字を使用している庶流でも本家の家紋を使用している場合があります。樺山家では佐多家と同じく分家の家紋二本山道がほとんどです。一部佐土原島津家の家老をしていた家が丸の付く本家紋を使用しています。
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Re: 掃苔総合スレッド
日時: 2005/08/04 09:01
名前: 薩摩の郷土史研究家
参照:
高遠さくらさま

鹿児島市内の墓地で岩下方平の墓には未だ出会っておりません。仮に南林寺墓地から青山霊園に方平の墓を改葬したとしましょう。南林寺墓地は大正11年までに廃止されています。青山霊園は明治5年頃の開設だったと記憶しております。大正11年頃に青山霊園に改葬するにあたって、はたして空いている墓地区画があったでしょうか?いかに子爵家とはいえ空き区画がないと改葬はできませんよね。(多磨霊園は大正12年?の開設でしたので空き区画はたくさんあったでしょう)方平の晩年の居住地、没年、没地は失念しましたが、東京に生活の基盤があり、東京で没しておれば、東京もしくは近郊に墓所を求めるのが自然ですね。もちろん、先祖墓がある鹿児島へ埋めることも考えられます。
こう考えてみると本墓は最初から青山霊園に造り、先祖墓があった郷里の鹿児島南林寺墓地(松原山)に招魂墓を造ったのではないでしょうか。南林寺墓地廃止に伴い、先祖墓、招魂墓は移動したのではないでしょうか。以上私の推論でした。
鹿児島市役所環境衛生課斎園係に旧南林寺墓地無縁墳墓台帳がありましたが、近年廃棄したそうです。以前閲覧しましたが貴重な情報が満載されていたのに残念です。

佐多さま

福昌寺墓地は長谷場墓地とも呼んでいます。現在は調所笑左衛門広郷の招魂墓ほか10数基の墓があり、福昌寺由緒墓として残されています。同地には広大な島津家墓地もあることは有名ですね。現在は鹿児島市立玉龍高校、玉龍中学(平成18年度開設)もあります。
鹿児島市営坂元墓地には福昌寺近在に住んでいた城下士の墓がたくさんあります。
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Re: 掃苔総合スレッド
日時: 2005/08/03 23:12
名前: 佐多
参照:
本日、小平霊園に行ったら新納家(分家)の墓がありました。墓碑には福昌寺墓地が大戦後に廃止となり坂元墓地へ改装したとのことです。福昌寺にも城下士の墓があったんですね。後は貴族院議員されていた川上親晴氏の墓もありました。(分家の紋と通字が親)その他吉利家、北郷家、樺山家(肥後家と合墓)、佐多家(川内高城士)、島津家がいくつかあります。(ひとつは久正氏とあるので庶流の可能性があります)珍しいところでは調所家が二基ありました。佐多家はほとんど無いですね、やはり。
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Re: 掃苔総合スレッド
日時: 2005/08/03 20:54
名前: 高遠さくら
参照:
薩摩の郷土史研究家さま。
詳細な情報、ありがとうございます。

岩下方平子爵の葬地に関してですが、私が見た資料では、鹿児島市の旧南林寺と青山霊園と記されたものがありました。
五輪塔さまの書き込みの通り、現在、岩下方平子爵の墓碑が現存しないことなどは、既に確認済みでしたので、その改葬先を知りたく思っておりました。

研究家さまの書き込みの様に、青山霊園に岩下方平子爵の墓碑は現存しておりますが、私は青山と鹿児島の二ヶ所に墓碑があるものと考えていたのですが・・・

岩下方平の葬地は当初から青山霊園だけで、鹿児島には埋葬、または分骨されていない。
または、南林寺の墓は、青山霊園へ改葬された。
または、南林寺から鹿児島市内の別墓地へ改葬されたという三通りが考えられますが。

もし、更に詳細がわかりましたら、宜しくお願いいたします。
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Re: 掃苔総合スレッド
日時: 2005/08/03 08:27
名前: 薩摩の郷土史研究家
参照:
高遠さくらさま

>旧南林寺墓地からの改葬先に関しては、市内の四ヶ寺であることを初めて知りました。

草牟田墓地は隆盛院、興国寺墓地は興国寺の寺がありましたが郡元墓地、露重(つゆしげ)墓地は鹿児島市郊外の丘陵地を開墾して墓地にしました。両墓地は隣り合っており大正8年の開設です。お寺があったわけではありません。私の説明不足でした。

岩下方平(佐次右衛門)の墓所は青山霊園ではなかったでしょうか。鹿児島市加治屋町に方平の所有地跡があります。(出典:旧土地台帳、法務局)
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Re: 掃苔総合スレッド
日時: 2005/08/03 00:14
名前: 高遠さくら
参照:
旧南林寺墓地からの改葬先に関しては、市内の四ヶ寺であることを初めて知りました。

さて、薩摩士族の岩下方平子爵は南林寺に埋葬されていますが、現在、四ヶ寺のどこに改葬されたのか、わかりましたらご教示ねがいます。
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Re: 掃苔総合スレッド
日時: 2005/08/01 17:11
名前: 佐多
参照:
薩摩の郷土史研究家さま
貴重な情報ありがとうございます。
八代家督佐多忠成二男忠真…直廉−直隆−直正と続いています。直正と二男武は西南役に薩軍として従軍しています。直正は桜島へ運行している船の船長をしていたそうです。次男が武(学校の先生)、三男武彦(陸軍軍人)、四男愛彦(医学博士)となっています。直正の二男が国会議員をなされていた佐多忠隆氏です。亡くなった年からすると直廉氏の長男だと思います。
私の母の実家は知覧にあるので、城下の方とはあまり関係ないのですが趣味で本家の知覧島津家を含めて調査をしています。
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Re: 掃苔総合スレッド
日時: 2005/08/01 15:15
名前: 薩摩の郷土史研究家
参照:
佐多さま
鹿児島市郡元墓地3合目付近に佐多家の墓があります。
佐多愛彦氏の祖父直廉氏との関係は不詳ですが次のように銘碑に書いてあります。

佐多直正 昭和8年11月1日  75歳
佐多ヒデ 昭和26年7月30日 83歳

また献燈に、有川貞直、鎌田政次の名がみえます。有川貞直(壮八)は前述、第三代鹿児島市長有川貞寿の父親です。貞直は鹿児島県官員でしたが西南戦争に加担し明治10年9月末に亡くなっています。
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Re: 掃苔総合スレッド
日時: 2005/08/01 09:22
名前: もへい
参照:
もへいさまへさん有難うございました。
家の祖父がお墓はどこかと捜していたので助かりました。
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Re: 掃苔総合スレッド
日時: 2005/08/01 08:50
名前: 薩摩の郷土史研究家
参照:
佐多さま
松原山、つまり南林寺墓地には約13万5千基の墓がありました。(市案内板による)この墓地は鹿児島市の中心にあり、市の発展を阻害しているとの理由で、第三代鹿児島市長有川貞寿の発案により近在の草牟田墓地(草牟田町)、興国寺墓地(冷水町)、郡元墓地(郡元町)、露重墓地(郡元町)へと改葬する事になりました。「先祖の墓を動かすとは何事か!」と反対の声が上がりましたが、それでも断行し、大正11年頃までには改葬が完了し、墓地跡は市民に分譲され現在は南林寺町と称しています。
佐多愛彦氏の祖父直廉氏は、その後移転されていなければこの4墓地のどこかに眠っているはずです。
郡元墓地に佐多家の墓がありますのでみてみましょう。
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Re: 掃苔総合スレッド
日時: 2005/08/01 00:43
名前: もへいさんへ
参照:
青バット大下弘氏のお墓とゆかりの場所
お墓:千葉市平和公園墓地(千葉市若葉区) JR千葉駅よりバスで約30分
普通墓地D−3−9
人生最期の日:1979年5月23日
自宅:千葉市稲毛区園生町
稲毛ファミールハイツ14棟307号室
JR稲毛駅より京成バス「ファミールハイツ」行き
「球に生き 球に殉ず身 果報者」青バット 大下 弘   墓碑板より
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Re: 掃苔総合スレッド
日時: 2005/07/31 21:04
名前: 佐多
参照:
五輪塔さま
なるほど、ありがとうございました。医学博士佐多愛彦氏の祖父直廉氏は明治五年に亡くなり松原山に葬られたそうです。大正に墓地が廃止されたのでどこかへ移転したと思います。
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Re: 掃苔総合スレッド
日時: 2005/07/31 20:10
名前: もへい
参照:
二度目をすいません。
青バットで有名な大下弘のお墓について何か
知りませんでしょうか。
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Re: 掃苔総合スレッド
日時: 2005/07/31 18:54
名前: 五輪塔
参照: http://www4.airnet.ne.jp/soutai/
佐多さま
松原山は旧南林寺の山号です。
現在松原町や松原神社があるあたりです。お墓は由緒墓地に残っている以外は郊外の墓地に移転か廃棄されています。
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Re: 掃苔総合スレッド
日時: 2005/07/31 17:51
名前: 佐多
参照:
有吉家で盛り上がりのところすいません。
鹿児島の松原山へ葬ったとよく古い本に記載されているのですが、場所はどこにあるのでしょうか?誰かご存知の方がいましたらご教授願います。
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