人物総覧 す 尾張藩 儒学者・国学者

名前 鈴木朖
よみ すずきあきら
生年 明和元年(一七六四)
没年 天保八年六月六日(一八三七)
場所 愛知県名古屋市千種区
分類 尾張藩儒者
略歴

 字は叔清、幼名恒吉、通称常介、号離屋。父は山田重蔵、三河の人で代々医師の山田氏の家を継ぐ。母はソノ。明和元年三月春日井郡下小田井村(枇杷島)に生まれ、兄梁山・弟良順と共に医学を学んだが、"医は賤業"と考え、のち儒学をもって身をたてる志をもった。幼少の頃から文章にすぐれ、十五歳のとき、僧梵韶の編集した『張城人物志』に「山田朖 字叔清号■■琵琶島 山田常介」とある。天明三年明倫堂が新設され、細井平洲が督学に就任すると、平洲は朖を門人にしようとして誘ったが、断ったと伝える。朖は本居宣長の著書を読んで感動、寛政四年、二十九歳のとき、けん園学派の師鶴鳴と論争した宣長の門下になった。朖は同七年近習組同心(のち手筒組同心)となり六石二人扶持を得、文化元年記録所書役並となって八石三人扶持を加増され、同三年には本役に起り二石を加増された。しかし、同年の倹約令のため記録所が廃止になるなど恵まれず、薄給に甘んじた。文政四年儒者として藩に認められ、天保四年正月、明倫堂に国学の科が設けられると、教授並に抜擢され、二十石四人扶持を給与された。朖はすでに七十歳の老齢に達していたが、『日本書紀』『古今和歌集』を講義し、天保六年十二月には、その功により永世徒格以上となった。性狷介で名利にとらわれず、藩主宗睦が詩歌の添削を求めたとき、本紙に黒々と遠慮なく添削した。また近所に火事があったとき、火事の心配よりも、その門に見舞として贈られた酒の量の多さを自慢した。言語学に優れ、著書はすこぶる多く、特に三部作『言語四種論』『雅語音声考』『活語断続譜』は高く評価されている。門人に丹羽勗、茜部相嘉、森嘉基、野村秋足、栗田直政、高橋広通(笠亭仙果)らがいる。妻は海西郡芝井新田の浄念寺住持恵亮の女横井コヨ。二人の間に三子があった。天保八年六月六日(藩の記録は十二日)、七十四歳で死去。通靖院離山浄達居士。
 墓碑銘は「離屋鈴木先生墓」。

鈴木朖墓所

鈴木朖の墓

鈴木朖墓誌

横井コヨの墓
  
ゆかりの人物リンク
名前 関係 補足 墓所 写真
茜部相嘉 門人 江戸時代後期の尾張藩士、金鉄党 名古屋市中村区
市岡猛彦 交友 江戸時代中期の尾張藩士、国学者、歌人 名古屋市千種区
植松有信 交友 江戸時代後期の国学者 名古屋市千種区
植松茂岳 交友 江戸時代後期の尾張藩士、国学者、明倫堂国学教授 名古屋市瑞穂区
東京都台東区
加藤逸人 門人 江戸時代後期の俳人、商人 名古屋市西区無縁墓地
加藤行虎 交友 江戸時代後期の医師、国学者 名古屋市千種区 見あたらず
栗田直政 門人 江戸時代後期〜明治期の国学者 愛知県海部郡大治町
杉本蘭皋 門人 江戸時代後期の尾張藩士、書家 名古屋市西区
鈴木常明 門人 幕末の尾張藩医、蘭学者 名古屋市千種区
津田正生 門人 江戸時代後期の地誌家、酒屋、「尾張地名考」 愛知県海部郡佐織町
徳川宗睦 主君 江戸時代中期の大名(尾張藩)、9代藩主。藩校明倫堂を創設 愛知県小牧市
丹羽盤桓 門人 江戸時代後期の書家、儒者、尾張藩右筆 愛知県稲沢市
丹羽嘉言 交友 江戸時代中期の画家、「神洲奇観図」 名古屋市昭和区
野村秋足 門人 江戸時代後期〜明治時代の国学者 名古屋市千種区 見あたらず
本居宣長 江戸時代中期の国学者、『古事記伝』 三重県松阪市(2カ所)
森嘉基 門人 情報求む 情報求む
柳沢維賢 門人 江戸時代後期の尾張藩士、書家 愛知県西春日井郡西枇杷島町
笠亭仙果 門人 江戸時代後期の戯作者、初代 東京都江東区
横井コヨ 鈴木朖の妻 名古屋市千種区


ゆかりの地リンク
場所 住所 説明 写真
鈴木朖生誕地 愛知県
 西春日井郡西枇杷島町
  東六軒町
明和元年三月春日井郡下小田井村に生まれ医者の三男として生まれています。
鈴木朖離屋之跡 名古屋市西区
 花の木
文化2年(1805)から明倫堂教授並となった天保4年(1833)まで住んでいた鍼医勝田三雪の離屋。
明倫堂跡 愛知県名古屋市
 中区丸ノ内2-3
   那古野神社
 九代藩主宗睦が藩士の子弟の教育のため天明三年(一七八三)に設立した学問所。初代総裁は細井平洲。明治四年(一八七一)七月二十八日廃藩置県の結果廃校となった。

鈴木朖離旧居跡 名古屋市西区
 城西3-21-17
天保4年(1833)、70歳の時移り住んだところ。
鈴木朖離終焉地 名古屋市西区
 城西3-21-17
天保8年(1837)ここで亡くなった。
離屋会館 名古屋市西区
 城西3-21-17
鈴木朖が晩年住んでいたところで子孫が鍼医を営んでいる。
常夜燈 愛知県犬山市
 北古券65-1
犬山の大商人犬飼藤九郎の依頼を受けて、文政12年(1829)に書いた銘文のある常夜燈