名前 |
鈴木常明 |
よみ |
すずきつねあき |
生年 |
文化八年四月(一八一一) |
没年 |
明治三年十月四日(一八七〇) |
場所 |
愛知県名古屋市千種区 |
分類 |
医家 |
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略歴 |
名は保、小字鍋介、通称は容蔵、後節斎と称す。快然堂、清高軒等の号あり。文化八年四月、本府玉屋町に生る。鏡屋正七の長子なり。性学を好み、鈴木離屋の門に入って国学を修む。天保四年、京師に出てて香川景樹を訪ひ、城戸千楯、植松茂岳等と交遊す。常に医に志し、文政十二年、奥詰医師浅井氏の門に入り、本道医術を修む。天保二年、奥詰医小笠原定菊に就いて外術を修む。五年京師に上り、小石元瑞の門に遊び、蘭法医術を修め、小森宗二に就き、蘭学を学ぶ。在学九年にして、天保十四年、名古屋に帰り、業を開く。十五年五月、藩医三段席を拝命し、帯刀を許さる。弘化二年二段席に進み、嘉永二年一段席に陞る。四年十二月、御目見仰付けらる。是より先き嘉永三年正月、京都の医長柄春龍より種痘法の伝授を受け、奥詰医伊藤圭介等と計り、種痘所を設置し、広く種痘を施行す。是れ実に名古屋に於ける種痘の嚆矢なり。五年十一月、種痘締方を命ぜらる。安政二年、外科医免許を受け、五年本道御用掛を命ぜらる。元治元年、本業を以て尾藩の長州征伐に隨行し、無事任を全うす。開業以来来り学ぶもの数十人に至る。明治三年十月四日、病んで桑名町の家に没す。年六十。養嗣容庵故ありて離縁し、竹居津奈女養はれて戸主となる。常明性、酒を嗜み、徹宵痛飲、時事を談ず。其京に在るや、浮田一寫ヨと友とし善し、其国に帰るや、喜田華堂、渡辺清(渡辺周渓)等と雅遊す。常に、天下の大勢に着眼し、家人、門弟を誡む。又地理製図等に於て頗る精を極むと云ふ。
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鈴木常明の墓 |
ゆかりの人物リンク |
名前 |
関係 |
補足 |
墓所 |
写真 |
伊藤圭介 |
交友 |
江戸時代後期〜明治時代の植物学者,蘭方医。日本最初の理学博士 |
東京都台東区 |
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植松茂岳 |
交友 |
江戸時代後期の尾張藩士、国学者、明倫堂国学教授 |
名古屋市瑞穂区 東京都台東区 |
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浮田一寫ヨ |
交友 |
江戸時代後期の画家、安政の大獄に連座 |
京都市上京区 京都市東山区 |
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小笠原定菊 |
師 |
尾張の医者 |
情報求む |
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香川景樹 |
交友 |
江戸時代後期の歌人、桂園派の祖。 |
京都市左京区 |
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喜田華堂 |
交友 |
江戸時代後期〜明治時代の画家、尾張藩御用絵師 |
愛知県西春日井郡豊山町 |
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城戸千楯 |
交友 |
江戸時代後期の国学者、鐸舎 |
京都市左京区 |
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小石元瑞 |
師 |
江戸時代後期の医師、京都の二大蘭方医の一人 |
京都市北区 |
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小森宗二 |
師 |
江戸時代後期の医者、究理堂塾頭 |
京都市下京区 |
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鈴木朖 |
師 |
江戸時代中期の国学者 |
名古屋市千種区 |
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長柄春龍 |
師 |
京都の医者 |
情報求む |
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渡辺清 |
交友 |
江戸時代後期の絵師 |
名古屋市千種区 |
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