名前 |
植松有信 |
よみ |
うえまつありのぶ |
生年 |
宝暦八年(一七五八) |
没年 |
文化十年六月二十日(一八一三) |
場所 |
愛知県名古屋市千種区 |
分類 |
国学者 |
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略歴 |
尾張藩士植松信貞と側室(青木氏)との間に生まれる。幼名市九郎、長じて忠兵衛と称した。田中道麿の門に入り国学を学ぶ。17歳の時に父が浪人となり、天明5年に没し、兄の波吉も出家していたため、京都遊学中に習得した板木彫刻で生計を支えた。これがきっかけとなり本居宣長の『古事記伝』出版に携わることになる。寛政元年本居の名古屋訪問を契機に入門し、本居の指導を受け国学・和歌に対する知識を深め、次第に名古屋地方における本居門下の中心人物となった。また、『古今集遠鏡』『新古今集美濃の家づと』『新古今集美濃の家づと折添』等、多くの板刻を手懸けた。特に寛政11年の『真福寺本将門記』は原本の字体・返点・仮名を忠実に板刻したもので、板木師としての仕事も充実していた。享和元年に本居が病没すると、その子春庭に入門。『山室日記』『今ひとしほ』『長閑日記』などを残した。横井千秋・鈴木朖など交友関係は広く、社会的信望も厚かった。家庭的には妻伊勢(鞍山氏)との間に実子はなく、養子(茂岳)を迎えた。潭月宗印居士。
墓碑銘は「植松有信之墓」。墓域内に碑がある。
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植松有信墓所 |
植松有信の墓 |
植松有信碑 |
ゆかりの人物リンク |
名前 |
関係 |
補足 |
墓所 |
写真 |
朝見安彦 |
門下 |
江戸時代後期の神職(尾張旭市渋川神社) |
情報求む |
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植松茂岳 |
養子 |
尾張藩国学者、明倫堂国学教授 |
名古屋市瑞穂区
東京都台東区 |
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川村秋輔 |
交友 |
江戸時代中期の国学者、商人 |
名古屋市千種区 |
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清水忠美 |
門人 |
江戸時代中期の国学者 |
名古屋市千種区 |
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寿栄尼 |
出資 |
江戸時代中期〜後期の尼僧 |
名古屋市千種区 見あたらず |
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鈴木朖 |
交友 |
江戸時代中期の国学者 |
名古屋市千種区 |
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鈴木真実 |
交友 |
江戸時代中期の尾張藩士、国学者 |
名古屋市中村区 |
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田中道麿 |
師 |
江戸時代中期の国学者 |
名古屋市千種区 |
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伴信友 |
交友 |
江戸時代中期〜後期の国学者 |
福井県小浜市 |
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松井寿安 |
交友 |
江戸時代中期の国学者 |
名古屋市千種区 |
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本居内遠 |
門人 |
江戸時代後期の国学者、本居大平の養子 |
東京都品川区 |
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本居春庭 |
師 |
江戸時代中期の国学者、本居宣長の長男 |
三重県松阪市 |
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本居宣長 |
師 |
江戸時代中期の国学者、『古事記伝』 |
三重県松阪市(2カ所) |
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横井千秋 |
交友 |
江戸時代中期〜後期の尾張藩士、国学者 |
愛知県中島郡祖父江町 |
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渡辺清 |
門人 |
江戸時代後期の絵師 |
名古屋市千種区 |
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