人物総覧 お 尾張藩 儒学者 円明流

名前 奥田鶯谷
よみ おくだおうこく
生年 宝暦十年五月二十二日(一八三一)
没年 天保一年十一月十八日(一八三〇)
場所 愛知県名古屋市千種区
分類 尾張藩儒者
略歴

 姓は藤原、名は永業、字は叔建、字を以て行はる。通称は与三郎、巽亭、牧斎、皆当て居止する所に因りて号す。後御園に住するを以て、鴬谷と号す。五世の祖傍島自入、初め新左衛門と称す。美濃不破郡笠毛村の人なり。豊後に適きて、福島正則に仕へ、因りて船井に家す。正則国除かるゝに逮びて、美濃に帰り、復た仕を求めず、後奥田氏を冐し、医を以て世を終ふ。子自徹、孫真徹、曾孫三徹、突世医を業とす、元禄十三年三徹来りて名古屋に住す、乃ち鴬谷の祖父なり。鴬谷、父を遊川といふ、母は磯野氏、宝暦十年五月二十二日を以て生る。長兄孝英、俊良と称し、次兄世文、周之進と称す。儒医を以て倶に京師に遊学し、天明の間相次いで没す。鴬谷独留りて尾張に在り、性医を好まず、専ら武芸を修め、舅左右田九平に就きて円明流の兵法を学ぶ。長じて更に節を折りて書を読み、岡田新川に師事す。河村乾堂、浅井貞庵を友とし、日夜憤励して、経史を博綜し、最も詩を善くす。寛政六年五月、積年学に勤め、生徒益進むを以て、明倫堂典籍並に挙げられ俸五口を賜ふ。十一年四月世禄の臣に列し、文化元年四月教授に徒る。文改元年十二月、編修史となり、十一年十一月右筆組頭に列す、前後数々廩米を加賜し、職事に務むること三十七年に及ぶ。天保元年十一月十八日、病みて家に没す、享年七十。著す所「牧斎隨身巻」「釈辞」等あり。子に桐園、亮斎あり。門下より田宮桂園、熊田休庵、国枝松宇等を出す。立空叔建居士。(名古屋市史)
 墓碑銘は「奥田鶯谷先生」。碑文あり。


奥田鶯谷墓所

奥田鶯谷の墓
  
ゆかりの人物リンク
名前 関係 補足 墓所 写真
奥田a川 江戸時代中期の儒学者 名古屋市千種区
見あたらず(合葬?)
奥田桐園 長男 江戸時代後期の儒家、鶯谷の長子 名古屋市千種区
奥田亮斎 次男 江戸時代後期の儒家、鴬谷の第二子 名古屋市千種区
見あたらず(合葬?)
浅井貞庵 親交 江戸時代後期の尾張藩士、医者、浅井家四代 名古屋市千種区
岡田新川 江戸時代中期の儒学者、尾張藩校明倫堂督学 名古屋市千種区
河村乾堂 親交 江戸時代後期の国学者、儒者、河村秀根の次男 名古屋市千種区
国枝松宇 門下 江戸時代後期〜明治初期の儒学者、蝋燭商人。赤穂義士に傾倒。 名古屋市千種区
熊田休庵 門下 江戸時代後期の儒学者 名古屋市千種区 見あたらず
田宮如雲 門下 江戸時代後期の尾張藩士、尊攘派の中心人物。桂園。維新後名古屋藩大参事 名古屋市昭和区
三村玄澄 門下 江戸時代後期の医師 名古屋市千種区


ゆかりの地リンク
場所 住所 説明 写真
明倫堂跡 愛知県名古屋市
 中区丸ノ内2-3
   那古野神社
 九代藩主宗睦が藩士の子弟の教育のため天明三年(一七八三)に設立した学問所。初代総裁は細井平洲。明治四年(一八七一)七月二十八日廃藩置県の結果廃校となった。