掃苔帳 み 尾張藩 医者

名前 三村玄澄
よみ みむらげんちょう
生年 寛政四年一月十一日(一七九二)
没年 嘉永六年十二月十四日(一八五三)
場所 愛知県名古屋市千種区
分類 尾張藩医
略歴

 名は百穀、字は茂公、寫ヨと号し、其堂を鑑古と号す。玄澄は其通称なり。名古屋鉄砲塚の人にして、父を長兵衛といひ、家世々薬舗たり。玄澄、寛政四年正月十一日を以て生る。幼にして学を好み、奥田鶯谷に従って経史を修習す。歳十三、浅野春道の門に入りて医を学び、内科を練磨すること殆二十年に至る。門戸を開くに及び、苟くも其技を衒売するを欲せず、心を潜めて、益々其術を研く。一日感ずる所あり、憤然として笈を負ひ、紀州に往きて華岡青洲を師とし、外科を学ぶこと四年、其蘊奥を極む。是に於て内外の治方通せざるなし。帰りて居を伝馬町に卜し業を開く。遠近治を請ふ者麕集し、声名一時に嘖々たり。天保五年初めて目見を許され、十一年会に依りて俊恭院の疾を診し、弘化二年俸三口を給せらる。嘉永三年召されて奥医師の次に班し、改めて廿五石五口俸を給ふ。是時に当り前藩主斉朝病篤し、依て命を受けて薬を進む。慶勝国に就くに及び、恩遇愈々厚く、六年遂に奥医師に進み、本秩三十俵と伴せて百俵を給ふ。次で侍医となり、別に五十俵を加へらる。玄澄、人と為り清贏、然れども医員に陞りしより以来、未だ敢て勤仕を廃せず、亦以て其摂養の方あるを知るべし、平生敦厚にして方正、学芸を以て人に驕らず、業余好で画を作り、其子弟を教ふるに恂々倦まず、故に門下多く善医を出だし、藤浪萬徳最も著る、嘉永六年十二月十四日没す、享年六十二。玄澄、井深氏を娶り、二男二女を生む。長男玄寿、長女某皆先って没し、二男増次郎己に出でて姻家笹田氏を嗣ぐ。因て兄の子玄春を養ひ、次女を以て之に配し、家業を継がしむ。諦観院玄潭心澄居士。
 墓碑銘は「三村玄澄墓」。碑文あり。

三村玄澄の墓
  
ゆかりの人物リンク
名前 関係 補足 墓所 写真
浅野春道 江戸時代後期の本草家、医師 名古屋市千種区 見あたらず
奥田鶯谷 江戸時代中期-後期の儒者、名古屋藩校明倫堂教授 名古屋市千種区
徳川慶勝 主君 尾張徳川家 14代藩主、17代当主 愛知県瀬戸市 遺骨
東京都新宿区 空墓
華岡青洲 江戸時代後期の医師、日本初の全身麻酔手術 那珂郡那珂町
藤浪方岳 弟子 江戸時代後期の医師 名古屋市千種区