名前 |
藤浪方岳 |
よみ |
ふじなみほうがく |
生年 |
寛政十年十一月十日(一七九八) |
没年 |
慶応三年七月二十一日(一八六七) |
場所 |
愛知県名古屋市千種区 |
分類 |
尾張藩医 |
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略歴 |
名は謙貞、字は仙篤、方岳と号す。万徳は其通称なり。尾張海東郡津島新田の人。寛政十年十一月十日生る。父を八右衛門清光といふ。其先藤沢式部卿光春に出づ。萬徳、歳十六、藩の侍医小林亮適に従て医を学ぶ。既にして亮適、藩主の女維君の近衛基前に嫁くに隨ひて京都に赴く。萬徳之に伴はれて京に入り、頼山陽に従遊す。既にして帰り、適々三村玄澄の外科を紀伊の華岡青洲に学び、蘊奥を極めて還れるを聞き、乃ち家を弟八三郎に伝へ、往て玄澄に師事す。玄澄は亮適と旧あるを以てなり。次で玄澄擢でられて侍医となり、名四方に譟しく、治を請ふ者門に満つ。万徳孜々力を其間に盡し、内外の治療経験せざるなし。玄澄大に之を愛し、遂に勤めて業を上田町に開かしむ。実に天保十年正月なり。幾もなく業大に行はれ、名声頗る振ふ。人玄澄弟子ありと称す。十三年始めて目見を許され、文久三年正月藩主茂徳に扈して京に赴く。六月医員に列し俸七口を給せらる。元治元年奥医師に遷り、改めて秩廿五石俸五口を給ふ。十一月征長の役に従ひ葵章服及黄金の賞を受く。萬徳、人と為り豁達にして気慨あり。寵栄を受くと雖も未だ嘗て驕誇の色を見さず、業余其楓各の園に文雅の士を会し、酒を設け、豪談自ら適し、頗る塵表の人たり。慶応三年七月二十一日没す、享年七十。橘町崇覚寺に葬る。子無し、姪龍徳を養ひて嗣となし業を継がしむ。万善院徳行居士。
墓碑銘は「藤浪万徳墓」。碑文あり。崇覚寺より当地に改葬されている。
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藤浪家墓所 |
藤浪方岳の墓 |
ゆかりの人物リンク |
名前 |
関係 |
補足 |
墓所 |
写真 |
小林香雪 |
師 |
江戸時代中期の医者、書家。亮適 |
名古屋市千種区 |
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徳川茂徳 |
主君 |
美濃高須藩松平(尾張)家11代、
尾張徳川家 15代藩主、一橋家10代 |
愛知県瀬戸市
東京都台東区 |
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華岡青洲 |
師 |
江戸時代後期の医師、日本初の全身麻酔手術 |
那珂郡那珂町 |
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藤浪万得 |
養子 |
明治時代の医師 |
名古屋市千種区 |
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三村玄澄 |
師 |
江戸時代後期の医師 |
名古屋市千種区 |
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頼山陽 |
師 |
江戸時代後期の儒者、詩人、歴史家、書家 |
京都市下京区
京都市東山区 |
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