人物総覧 ふ
 尾張藩 医者

名前 藤浪万得
よみ ふじなみまんとく
生年 天保十三年三月十三日(一八四二)
没年 大正四年四月六日(一九一五)
場所 愛知県名古屋市千種区
分類 尾張藩医
略歴

 字は龍徳、斧山と号す。父を門保といふ。母は橋本氏、天保十三年三月十三日、尾張海東部津島新田大野山に生る。幼にして名古屋に来り、伯父萬徳に依りて医術を研鑽し、尤も外科に精し、万徳命じて其家を嗣がしむ。慶応三年尾藩侍医の職を襲ひ、維新の際藩主に従ひて東西に奔馳す。藩廃せらるゝに及び、家居して病客に接す。遠近来りて治を請ふ者恒に門に満つ。人と為り、清にして和善を楽み、施を好み、温乎として春の如し、博く書史に渉り、詩を嗜み書を能くし、風流韻事を愛す。其読書の室に名けて養愚庵といふ。刀圭の暇、文人雅客を延き、酒を置き茶を点じ、嘯詠揮灑して以て楽となす。大正四年四月六日没す、享年七十四。法諡して大成院斧山といふ。小出氏を娶りて五男二女を生む。長子鑑、四子剛一、共に医学博士たり。五子由之文学士たり。次女は医学博士森鳥庫太に嫁ぎ、余は皆早く没す。
 墓碑銘は「藤浪万得墓」。碑文あり。


藤浪家墓所

藤浪万得の墓
  
ゆかりの人物リンク
名前 関係 補足 墓所 写真
藤浪方岳 養父 江戸時代後期の医師 名古屋市千種区
藤浪鑑 長男 明治〜昭和時代前期の病理学者、
家鶏肉腫}(藤浪肉腫)の発見
名古屋市千種区
藤浪剛一 四男 明治〜昭和時代前期の放射線医学者、掃苔家 名古屋市千種区
東京都府中市