名前 |
小林香雪 |
よみ |
こばやしこうせつ |
生年 |
宝暦五年十月十四日(一七五五) |
没年 |
文政三年八月十四日(一八二〇) |
場所 |
愛知県名古屋千種区 |
分類 |
医者・書家 |
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略歴 |
名は文和、字は亮適、字を以て行はる。香雪と号し、別に香組山房の号あり。父は近藤市右衛門道次、母は中島氏。宝暦五年乙亥十月十四日、美濃海西郡松木村に生る。早歳医に志し尾張高針村の医小林嘉仲を師とす。因て小林氏を冐す。後藩医大河内存真の門に入り、最も小児科を善くするを似て名を知らる。寛政十年七月選ばれて寄合医師となり、明年二月奥医師に遷る。文化五年藩主の女維君の近衛基前に嫁するや、亮適之が侍医となりて京都に赴く。藩に仕ふること二十余年、累りに俸を増して三百俵に至る。香雪人と為り敏快朗達、文雅にして書を善くし、兼て画を善くす。梅、蘭、山水は最も其善くする所にして、一点塵俗の気なく、清雅愛す可し。又琵琶を愛し、壮より老に至る迄衰へず、其江戸及京都に在るや常に縉紳名家と交遊し、率ね風流を以て尚ばる。柴栗山、頼山陽の徒、推賞して措かず。香雪の京に在る時、山陽其書を見て畏敬の念禁じ難く、一日香雪を訪ひて行筆の法を問ふ。香雪誨へて曰く、徐ろに筆を行り、墨の紙背に徹するを期せよと。山陽唯々として退く。京都に書画の莚ある、当時の名流の作る所を展観す。山陽毎に事に従ふ者に嘱して曰く、我が書を香雪の書に隣次せしむること勿れと。寛政三年四月、一夫偶々宇治放生院の藩籬の側を穿ちて兎道橋断碑を獲たり。残缺二尺一許、旧碑の四の一のみ。香雪、内田蘭渚、小川雅宣、吉田重英、僧亮恵等と謀り、之を乞ひ得、足らざる所を補ひて、之を建つ。其事を幹し工を督する皆香雪の力に依る。初め香雪、大河内氏に在りて医を学び、其名漸く著はる。大河内氏薦めて藩医たらしめんとし、為めに礼服刀剣を備へて命の至るを待つ。既にして召聘の命至る。時方に夜なり、香雪を索むるに在らず、親近の人走せて四方に捜る。香雪熱田廿五挺橋上に座し、月の東山に昇るを観て琵琶を弾ず。使者喜んで伴ひ帰らんとす。香雪肯かずして曰く、余世に放浪して自適せんとす、爰ぞ復幣聘を用うることを為さむやと、諸人百方説きて伴ひ帰り、其師慫恵之れ務めて、遂に藩命に応ぜしむ。是を以て香雪仕途に在るも、心未だ当て山本を忘れず、人目して仙医と称す。山陽、香雪の琵琶を弾ずる画像に賛して曰く「香雪作書画、如其鼓琵琶、指所不到雅韵在 不必麻姑癢処爬、墨痕痩硬拙蔵巧、時為梅竹亦槎牙、陸沈[矢]門丘十歳、狡獪戯人咲唖々、空留遺像在人眼、脱[履]塵世如蛻蛇、吾題此詩郤[足咨][足且]、恐呵俗書著塗鴉、猶憶研北夕呼酒、一声裂帛堕燈花。香雪の面目、此詩に由りて窺ひ見るべく。恐呵俗書著塗鴉の一句、書に於て如何に山陽の香雪を畏れたりんやを想像すべし。文政三年八月十四日病みて没す、享年六十六。香祖院亮適日山居士。(名古屋市史)
墓碑銘は「小林香雪之墓」。
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小林香雪墓所 |
小林香雪の墓 |
ゆかりの人物リンク |
名前 |
関係 |
補足 |
墓所 |
写真 |
内田蘭渚 |
親交 |
江戸時代中期の好古家 |
名古屋市千種区 |
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大河内存真 |
師 |
江戸時代中期の医家・本草学者、尾張藩奥医師 |
名古屋市千種区 |
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小川雅宣 |
親交 |
江戸時代中期〜後期の商人 |
名古屋市中区 現存せず |
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小林嘉仲 |
師 |
医者 |
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柴野栗山 |
親交 |
江戸中期〜後期の漢学者 |
京都市左京区
東京都文京区 |
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藤浪方岳 |
弟子 |
江戸時代後期の医師 |
名古屋市千種区 |
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吉田重英 |
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頼山陽 |
親交 |
江戸時代後期の儒者、詩人、歴史家、書家 |
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亮恵 |
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