名前 |
池田玄斎 |
よみ |
いけだげんさい |
生年 |
安永四年(一七七五) |
没年 |
嘉永五年閏二月十七日(一八五二) |
場所 |
山形県鶴岡市 |
分類 |
国学者 |
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略歴 |
庄内藩士池田祐平安蔵(禄高百石)と蝶の長男として生まれる。通称祐治、実名を礼之、礼孺、字を子和と称し、愛山、避喧叟と号した。文化元年三十歳の時に耳を病んで聾となったために仕官を断念、家督を弟の安胤に譲り、名を玄斎と改めて風流文雅の道に入った。初めは儒学を学んだが、学問というものは「国学ヲ経トシ漢学ヲ緯トシ、長ヲ取リ短ヲ補フ」ものでなければならないと悟り、国学に転じた。しかし良師に恵まれず、書籍だけを頼りに研鑽を重ねた。和歌は杉山廉に師事したが、その才能は廉が亡くなった時、その弟子の多くが玄斎に添削を請うたほどであった。内外の多くの文人墨客と交わったが、とりわけ藩儒白井固、菅基や大山の学者田中万春とは親しく、また国学者鈴木重胤とも書状や筆談で学問上の討論を行っている。晩年には、その門に入る者がすこぶる多く、国学の普及に貢献した。歌集のほか多くの著書を著したが、中でも『弘采録』百三十九巻と『病間雑抄』七十四巻は、庄内文化史の重要史料となっている。また、史料集『大泉叢誌』百三十九巻の編纂にも加わっている。その他に多くの仮名文の碑文を撰文し、庄内地方における和文碑の先駆けとなった。嘉永五年閏二月十七日に七十八歳で病死。長男源兵衛の妻喜代井も文学者で、『温海の記』を著している。(三百藩家臣人名事典)
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池田玄斎墓所 |
池田玄斎の墓 |
ゆかりの人物リンク |
名前 |
関係 |
補足 |
墓所 |
写真 |
秋保親愛 |
弟子 |
江戸時代後期〜明治後期の歌人 |
山形県鶴岡市 |
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池田賚 |
孫 |
明治時代の教育者 |
山形県酒田市 |
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石井子龍 |
親友 |
江戸時代後期の庄内藩弓術家、画家 |
山形県鶴岡市(2カ所) |
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斎藤七太夫 |
弟子 |
江戸時代中期〜後期の大庄屋 |
山形県鶴岡市 |
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相良助右衛門 |
交友 |
江戸時代中期〜後期の庄内藩士 |
山形県鶴岡市 |
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佐藤梅宇 |
交友 |
江戸時代後期の絵師 |
山形県鶴岡市 |
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白井重固 |
交友 |
江戸時代中期〜後期の庄内藩士、致道館司業 |
山形県鶴岡市 |
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白井千代梅 |
弟子 |
江戸時代後期の歌人 |
山形県鶴岡市 |
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白崎善次郎 |
交友 |
江戸時代後期の木彫師 |
山形県酒田市 |
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杉山廉 |
師 |
江戸時代中期の歌人 |
山形県鶴岡市 |
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菅基 |
交友 |
江戸時代後期の儒学者、庄内三大家の一人 |
山形県鶴岡市 |
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鈴木重胤 |
交友 |
江戸時代後期の国学者、篤胤学を批判 |
東京都杉並区 |
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田中万春 |
交友 |
江戸時代中期〜後期の歌人、国学者 |
山形県鶴岡市 |
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服部昌樹 |
弟子 |
江戸時代後期〜明治初期の歌人、教師 |
山形県鶴岡市 |
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山口行斎 |
交友 |
江戸時代中期〜後期の蘭方医 |
山形県鶴岡市 山口県下関市 |
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魯道 |
交友 |
江戸時代後期の僧侶、国学者 |
山形県酒田市 |
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ゆかりの地リンク
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