人物総覧 あ 尾張藩 医者 本草家

名前 浅井図南
よみ あさいとなん
生年 宝永三年(一七〇六)?
没年 天明二年八月五日(一七八二)
場所 名古屋市千種区
分類 尾張藩医・本草家
略歴

 尾張藩医浅井家二代。幼名冬至郎、藤五郎、のちに周北、頼母、諱ははじめ政道、のちに惟寅。図南、幹亭、篤敬斎と号す。父は東軒(通称周廸、諱正仲)、母は三谷氏。浅井家は、近江国浅井郡の出身、京都医家の名門で、傷寒論を重視する古方派に属する漢方医家。父東軒は享保十年十二月、六代藩主継友の招聘に応じて、藩医として四百石の高禄をもって京都より名古屋に迎えられた。この時、図南もこれに従うことを父より命ぜられたが従わず、京都において医学徒の養成に尽くした。本草を松岡恕庵、文章を田中親長に学ぶ。また墨竹を描くに志し、ついに[竹均]圃、山科李渓、御園中渠と並んで平安四竹と称された。宝暦三年、図南四十八歳の時、父東軒の死により、八代藩主宗勝の招きに応じて、尾張藩医の職を継いだ。また、図南の来名により、全国から浅井家の家塾を目ざして医学徒が名古屋に集まったといわれる。図南は後進の指導に対して熱心で、誰に対しても気軽に接したといい、蔵書の借用を乞うものがあれば、秘蔵書といえども貸し与えたという。享年七十七歳。著書に『扁倉伝割解』『家脉講柄』『篤敬斎文稿』『詩集歎餘草』『発句集』などがある。誇徳院図南日奏居士。
 墓碑銘は「浅井頼母之墓」。碑文は山崎菜茹による。

浅井図南墓所
 
浅井図南の墓
 
浅井図南の墓 碑文
  
ゆかりの人物リンク
名前 関係 補足 墓所 写真
浅井貞庵 江戸時代後期の尾張藩士、医者、浅井家四代 名古屋市千種区
浅井東軒 江戸時代中期の尾張藩士、医者、浅井家初代 名古屋市千種区
浅井南溟 長男 江戸時代中期の尾張藩士、医者、浅井家三代 名古屋市千種区
浅井茅渟 養子 江戸時代中期の医者 名古屋市千種区
礁谷滄洲 親交 江戸時代中期の尾張藩儒学者 名古屋市千種区 見あたらず
田中親長 情報求む 情報求む
徳川宗勝 主君 江戸時代中期の大名(尾張藩)、8代 名古屋市東区 残骸のみ
遺骨は瀬戸市
日比野秋江 親交 江戸時代中期〜後期の儒学者 愛知県海津郡海津町
松岡恕庵 江戸中期の本草家 京都市右京区
松平公傴 交友 江戸時代中期の武士、旗本土呂山口氏代官、文人 情報求む
御薗中渠 平安四竹 江戸時代中期の鍼医、平安四竹の一人 京都市上京区
宮崎 平安四竹 江戸時代中期の漢学者、平安四竹の一人
京都市左京区
安岡道仙 門下 江戸時代中期の医者 高知県高知市
山崎真人 門下 江戸時代中期の医者 名古屋市千種区
山科李蹊 平安四竹 江戸時代中期の医者、平安四竹の一人 京都市左京区
山田康甫 門下 江戸時代中期の商人、趣味人 名古屋市昭和区 見あたらず

 
ゆかりの地リンク
場所 住所 説明 写真
医学館址 愛知県名古屋市
 中区錦2-19
 尾張藩医師の総元締であった浅井家が、医者養成のために18世紀後半、自邸内に設けた私塾。
 藩も医学館の運営に力をいれ、医師の資格試験を年二回行っていた。
 毎年六月十日にここで薬品会が開催され、東洋、西洋の珍しい動植物や鉱物が展示され、一般にも公開されていた。

極楽寺 愛知県名古屋市
 中区大須2-5-20
 安永9年10月に極楽寺で開催された書画会「春興楽事」に作品を出品している。