人物総覧 や 尾張藩 医者

名前 山崎真人
よみ やまさきまなと
生年 享保二十年四月十九日(一七三六)
没年 文化七年十月十九日(一八一〇)
場所 愛知県名古屋市千種区
分類 医者
略歴

 名は克明、字は士敏、通称専三、九皐と号す。尾藩伶人の後なり。父は壽朴、医を業とす。母は鈴木氏、享保二十年乙卯四月十九日生る。人と為り直にして敏、豁達周詳、頗る古人の風あり、幼にして孤となり、医を浅井東軒、図南父子に学び、儒を小出慎斎に学びて、皆斉蘊奥を究む。後業を開き、薬を施し方を講じ、夙夜懈らざること三十年、名望頗る高し、天明五年京に入りて法橋に叙せらる。寛政三年、擢でられて藩の寄合医師となり、俸七口を給せらる。度々藩主戚族の病を療し、又民間医薬の事に功あるを以て、賞せ受くること数次なり、享和二年歳六十八、致仕して真人と改め、其舎に名けて恬淡居といひ、専ら著述を以て事と為す。藩会に依り尾藩禁方集成七十五巻を撰し、又聖恵方百巻、聖済総録二百巻を校して進む・。其他纂述校訂する所幾んど三百巻に及び、間々世に行はるゝもの有り。黄鍾録は、医に関する名数を網羅せるものにして、初め海西郡の医生佐藤文杏といふ者、来りて医学館浅井氏に学び、受業の余暇草する所なり。稿を起すこと僅にして文杏家に帰る。真人之を惜み、遂に暇日を以て家蔵の方医を検し、大に之を益加して遂に二巻となし梓して世に行ふ。真に緒余の一事業といへども、亦以て真人の学に邃く聞に博きを窺ふべし。浅井氏の医学館は、医学の淵叢にして、遠近の学徒笈を負ひて来り学ぶ者常に家に満つ。圖南の子南溟没して嗣貞庵尚ほ幼なり、有司議して真人及村上見善を挙げて、教授せしむること七年、真人善く学徒を見、常に求めて曰く、怠の一字万事の廃する所、吾平生人に過ぐる者なし、但だ此病を免るのみと、真人酒を嗜めども未だ嘗て酔を以て事を廃せず、晩年多病なりしも亦病の為に志を屈せず、其精励終始渝らず。真人、人に接する常に怡々として和気靄然たり。辯論を喜むも嘗て譏侮の言無く、其家に居る出入制あり。妖婢に至る迄、食味に蜃き、贏余の田宅、皆族親を贍はす、其内外を修めて、善く始終する者、近世未だ斯の若きの人を聞かず、文化七年庚午十月十九日病で没す、享年七十六。真人二男一女あり、長正、次連、共に早く没す、季女省を以て義子祖静に配し、祀を奉ぜしむ。七十六歳。観広義道信士。
 墓碑銘は「山崎真人之墓」。碑文あり。

山崎真人墓所

山崎真人の墓

ゆかりの人物リンク
名前 関係 補足 墓所 写真
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浅井東軒 江戸時代中期の尾張藩士、医者、浅井家初代 名古屋市千種区
浅井図南 江戸時代中期の尾張藩士、医者、本草家、浅井家二代、平安四竹の一人 名古屋市千種区
小出慎斎 江戸時代中期の儒学者 名古屋市千種区
村上見善 同僚 尾張の医者 情報求む
山崎菜茹 養子 江戸時代中期〜後期の医者 名古屋市千種区